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テンちゃんのあたまのなか

テンちゃんが戻ってきた。童顔なのに垢抜けていて、細身なのにおっぱいが大きくて、小柄なのにいつでも世界の真ん中にいる女の子。かわいくて、かわいくて、かわいくて、だいすきだ。



「カッとしちゃったあ〜!」



テンちゃんは最後に会ったあの日と何一つ変わらない笑顔で言った。久しぶりのお酒にも、すすめられたたばこにも、屈しない。ずっと、ずっと、ずっと、最強なのだ。

テンちゃんは、あの男の首元から卑猥に伸びていたパーカーの紐で、あの男の首を絞めた。いきなりバイトを辞めたことも、SNSで知り合った人妻を抱いてその旦那と揉めたことも、共通の知人である女の子を孕ませたことも、一銭も増えることのないギャンブルに費やす金を貸すことも、全部許してきたのに、唯一つ、「動き始めた洗濯機の蓋を開けて、脱いで裏返しのままの靴下を放り込んだ」ことだけが、許せなかった。その瞬間、テンちゃんの腕はその罪深い紐に伸びていた。

「結局どうなったの?」

テンちゃんの話を薄ら笑みを浮かべて聞いていたマスターが、何杯目かのビールを注いで私の前に置く。こんなに冷やさなくてもいいだろってくらい冷たいタンブラーに口をつけて、横でにこにこしているテンちゃんを見る。「ending dick」と書かれた謎のトレーナーを着ているけれど、果たしてその真意は何なのか。そしてそれは、どこで手に入れたのか。

「死ななかった!普通にボコられて、わたしが脳震盪起こして救急車呼んで、正当防衛どうこうとかそんなんなったけど、結局向こうが悪いっぽくなって、なんかよくわかんない!」

テンちゃんは馬鹿みたいな話し方をする。順を追って事細かに説明することが嫌いなのだ、と、本人は言う。「ばかみたいな喋り方してたらモテるかなと思ってやってみたら、めっちゃモテたけどまじでばかになった!あはは〜」。勉強飽きたと言って、一年で東大を辞めた。次の年に早稲田に入り直して、留年した。その過程で出会った知り合いの知り合いのバンドマンが、あの男。顔とセックスしか取り柄のない、地雷女ホイホイ。何度か一緒に麻雀を打ったことがある。後ろで見ているテンちゃんにあーだこーだ言って、テンちゃんは「そうなんだあ〜!」「すご〜い!」ってはしゃいでいたけれど、あの男は知らない。私は高校時代に、テンちゃんから麻雀を教わったことを。



「好きなマンガ?あんまり読まないけど、お兄ちゃんが集めたスラムダンクは全部読んだよ〜!おもしろいよね〜!」

テンちゃんは笑う。その横で私も笑う。つげ義春と古屋兎丸がずらりと並んだ本棚を思い出す。ハヤカワSF文庫の、あの微妙に背丈のずれた後ろ姿を思い出す。

テンちゃんの部屋には、本棚と、正方形の小さな冷蔵庫と、ふかふかのベッド、小さなテーブルしかない。近所のコインランドリーが大好きで、そこのベンチでよく二人で本を読んだ。私はSFを読むのが苦手で、難しいことはいつもテンちゃんが教えてくれた。私の頭の中が、テンちゃんの言葉でいっぱいになる。

「想像するんだよ、あの洗濯機の何十年、何百年後を。それは誰もまだ触ったことがない素材で出来ていて、誰も見たことのない形なの」

「……ドラえもん的な」

「ふふっ。或いは、そうかもしれない。近未来は、想像をあまり超えてこない。でも時々、わたしでも想像し難い未来の姿が現れるの。それをね、頭を使って想像する。うまくいくと、どこにもない、否、どこかにあるかもしれない、わたしの知らない世界が、頭の中心に組み立てられていくの。SFは、自分の想像の限界を超越する為にあると思うの」



テンちゃんは、私の前では嘘をつかない。本当のテンちゃんになる。大好きな、佐藤天華。かわいいだけじゃない、だいすきな、テンちゃん。

テンちゃんはその三日後、限界を迎える。まあでも正直いつそうなってもおかしくないとは思っていた。ぶっちゃけね。テンちゃんは仏じゃない。普通に女の子だし、その辺はどちらかというとばかなのだ。フリーターがバイトを辞めた時点で別れるべきで、浮気もぶん殴るべきで、金なんてその後に絶対揉めるんだから貸すべきじゃない。でもテンちゃんは、あの男が好きだったのだ。大好きだったのだ。



「落ち着いたら、結婚したいなあ」



テンちゃんは、あの男との未来に、うっとりしている。潤んだ瞳で、私をちらりと見る。その瞳の奥に、構築されたあたらしい世界が見えた。瞳に映る私は、テンちゃんの世界の真ん中に立っていて、こちら側の私をしっかりと見つめていた。



わかったよ、もう。

テンちゃんのことがだいすきな私の未来は、 もう、 テンちゃんの向こう。



(空白)

来世は幸せ。