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発達障害が増えている、という言説に思うこと。




発達障害が増えている、児童虐待が増えている―…ちまたによく溢れる言い回しが私は嫌いだ。
それは「そんな悲観的な物言いをするな」という心情によるものというよりも、それ自体が誤解だからだ。


物事をよくわかっている方には当たり前の事かもしれないが、増えたのではなく認識が出来たから可視化されるようになっただけだ。


大雑把にいえば、人はものを「見て」理解するのではない、そこに「定義付け」や「名付け」をして初めて理解の一歩を踏み出すのだ。
まずそれが前提にある。


私たちは、リンゴを「見て」リンゴだと「分かる」ように思っているが、そうではない。
リンゴには「リンゴ」という名付けと(その呼称を持つための)定義づけがなされていて、その特性をもつ個体がそうであるという「認識」が多くの人に共有されているからこそ「リンゴ」だと分かるのだ。


これはほとんどの場合無意識による学習や、無意識に親や社会、あるいは自分の経験から読み取ったりしてきたものであったりするので、ここをすっ飛ばしてしまう人は多いように思う。


「名付け」は理解と認識への一歩だが、それだけでは終わらない。
その名付けによる「定義」が、多くの人に共有され、衆知され、より多くの人に認識されているからこその話だ。


発達障害の増加について触れたが、児童虐待についてもそうで、昔は子供の命は非常に軽かった。
たとえ理不尽に殴られていてもそれは親の領分で誰も口が挟めるものでは無かったし、間引きはあったし、子供であったとしても働かされることもあり、最悪の場合は売られた。
現在の意識からすれば人権などなかったも同然だろう。
それが「虐待」にあたるという認識が社会に広まったからこそ、今の現状がある。
私が「○○が増えたー!」と安直にのべつらう言説が嫌いなのは、その視点と意識と自覚が欠落しているからだ。


名付けと定義と衆知によって、今まで「見えなかった」ものが見えただけのことだ。
認識できたようになっただけのこと。


「私は気が付かなかったし知らなかったのですが、この定義の誕生によって見えるものが増えました」なら、納得するのだが。


ここからは蛇足。


私は大学では心理学を専攻していたので、ききかじることはあったのだが、今現在心理学畑では発達障害(の研究)ブームであるらしい。その前は境界線パーソナリティ障害研究ブームであった。
境界線パーソナリティ障害については発達障害ほどの盛り上がりや、一般人への衆知も少なかったように思うが、それによって起こるメカニズムはいつの頃も変わらないな、と思う。
認識が出来たことで増えたのだと錯覚する人、またはそれに当てはまるから私もこうに違いないと駆け込む人、病名がアイデンティティになってしまう人など。


勿論、発達障害を批判しているわけではない。私自身もADHD。私の夫はADDで、発達障害カップルである。


思うのは、その新たな「認識」が自己に対する理解を深め、楽にすることはあるだろう。
しかしながらそれは、免罪符を与えてくれたわけでも、生きづらさからの劇的解放を約束する万能の薬を与えてくれた訳でもない。ということ。結局は個々人が自分のために、自分に合うモノややり方、生き方を、己で模索していかなければならないのだ。


今日もまた新しい何かを取り上げて、「○○が増えています!」と叫ぶ世相を、生暖かい気持ちで見守っている。

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