見れない映画3:生を狂わす映画



・『時間』のこと

映画の話に少し戻る。最初に「知らない映画」を見るのが愉しいと言ったが、いやそうとは限らない。好みはあるし、やっぱり面白い映画が見たい。なんなら私はどちらかというと非常にその面白さの範囲が狭い原理主義者の類だ。しかし、その狭い教義に基づいて鑑賞を続けると「知ってる映画」ばかり見ることになる。これはこれではつまらない。「知らない映画」とは、こうして「面白い映画」と対立するものなのか。と、いう話になるかとも思ったが、案外そうでもない。知らない映画を知ることは確かに知識の(必ずしも知的とは言い難い)愉しみがあるし、それ自体が余計な知識として人生にノイズをもたらすけれど、それ以上に私の思う「面白い映画」というのは説明しようと思えば思うほど、それはかなりノイジーな体験として説明できるから今回はなんとか、「面白い映画」の定義のほうを試みる。

「冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのでなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものである。」

吉田健一『時間』

これは映画批評でも映画の話ですらない。吉田健一のエッセイ「時間」の冒頭だ。しかし、私にとってはこれが、存在しないあらゆる面白い映画についての優れた映画批評として読める。もちろん吉田にそんなつもりはないだろうけれど。どういうことか。つまり、面白い映画とは何かというのを映画から取り出して抽象化してしまうと、こういうものになる、そういう直観がここに言い表されているように私には見えるのだ。そしてそれは、架空の優れた映画の映画批評であると同時にある時間感覚についての描写でもあるはずなのだ。
どういう時間感覚なのだろうか。吉田が説明しようとしているこの「時間」は、時計の時間と対比関係にある。それは決して珍しいものではないが、そうと気づかなければなかなか体験しづらい。むしろそこかしこにありふれているからこそ、どこにもありすぎてそれとして直接取り出して見るのは難しい。だから、木の枝の枯れ葉の表面に、ものが水に濡れるように光が当たって反射と影とができて物が揺れ動いているものを見ると、そういう動きを感じることができるけれど、それ自体をいちいち「時間が流れている」ものとして取り出すことの難しさがここに述べられている。この時間感覚は確かにジル・ドゥルーズが映画についてベルクソンを経由しながら映画について試みた彼の哲学にかなり似ている。以下、映画の話として同じことをもう一度語り直してみよう。


・『時間イメージ』のこと

「純粋な光学的かつ音声的イメージ、固定ショット、モンタージュ・カットは運動の彼方にあるものを定義し、また内包する。(…)まず第一に、運動イメージとその感覚運動的記号は(モンタージュに依存しながら)時間の間接的イメージに直接関係するのである。まさにこの反転によって、時間は運動の尺度ではなくなり、運動は時間の遠近法となる。これこそが、モンタージュの新しい発想と新しい形式とともに、まさに時間の映画を作り出す(ウェルズ、レネ)。第二に目が見者の機能に接近すると同時に、視覚的であるばかりでなく音声的でもあるイメージの諸要素は内的関係の中に入り、それによってイメージ全体が見られるだけでなく、「読まれ」なければならず、見ることができると同時に、読むことができなければならない。占い師の目に似た見者の眼にとって、感覚的世界の「字義性」こそが、この世界を本として構成する。ここでもまたイメージあるいは描写の、独立と仮定された対象へのあらゆる参照は、すべて消えてしまうわけではなく、今は内的な要素や関係に従属し、このような要素や関係は、今や対象にとってかわろうとし、対象が現れるにつれて、たえずそれを移動させながら、それを消去しようとする。(…)動いている時でも、カメラはもはや人物の運動を追うことや、人物がその対象にすぎないような諸運動を操作することに満足しているのではなく、あらゆる場合にカメラは空間の描写を思考の機能に従属させている。単なる主観的なもの、現実的なものと想像的なものの区別ではなく、反対にその識別不可能性がカメラに諸機能の豊かな集合を与え、フレームとリフレーミングの新たな概念をもたらすだろう。」

ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』

前提として二冊セットのこの本には運動イメージと時間イメージの対・概念が登場するのだが、これは後者についての説明だ。もちろん先に述べた吉田健一と似ているのはその「時間イメージ」のほうである。ひとつことわっておきたいことがあり、ここではこの『シネマ』という本をここで読むにあたって、哲学理論に従えば映画とはこういうものである(だから本を読めば映画を見なくても映画がわかる)という本として読むつもりはない。むしろ映画を見ると哲学の言葉にならない部分が映画からわかる(だから本に書いてないことは映画を見よう)という本として扱う。つまりここでやっているのは哲学の話ではなく、映画の話であるということにとどまりつづける。ここで書いていく日記については一貫して映画とは楽しみの単位である。

話を戻そう。吉田の「時間」と本書の「時間イメージ」が近いものだというのは既に述べたが、では、映画において物語を説明する語彙に相当する(と一旦、単純化して説明してしまう)「運動イメージ」は、吉田が対比として登場させる時計の時間により近いもののはずだ。その関係の中で「時間イメージ=純粋な光学的かつ音声的イメージ」についてもう一度読んでみよう。

「純粋な光学的かつ音声的イメージ、固定ショット、モンタージュ・カットは運動の彼方にあるものを定義し、また内包する。(…)まず第一に、運動イメージとその感覚運動的記号は(モンタージュに依存しながら)時間の間接的イメージに直接関係するのである。まさにこの反転によって、時間は運動の尺度ではなくなり、運動は時間の遠近法となる。これこそが、モンタージュの新しい発想と新しい形式とともに、まさに時間の映画を作り出す(ウェルズ、レネ)。」

ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』

この節の前に具体例として、イタリアのロッセリーニ、フランスのヌーヴェルバーグ、小津安二郎の映画が取り上げられている。それ以前のハリウッド映画の物語重視の運動イメージ的なものと一線を画し、こういう映画が時間イメージの体現者であると説明されてきたわけだが、個々の作品の話は別のところでする必要があればするとしてここでは本の話に限って進む。「時間は運動の尺度ではなくなり、運動は時間の遠近法となる」とある。どういうことか。つまり、運動イメージが「時間が運動の尺度である」とするながら、文字通り時間を使って運動について計測するのだから、100メートルを何秒で走ったというような話だと考えてみよう。こんなにざっくりした説明でいいのかという気もするが、私は哲学の専門家でもないので一旦、あくまで「映画の話」として続ける。一方、時間イメージになると今度は、時計のない場所での話になり、そこでは反対に運動のほうが時間の遠近法になるのだから、運動を通じて時間を観測することになる。つまり、運動イメージと時間イメージでは、時間と運動が、観測時の手段と内容とが反転する。吉田の、葉の表面を光が洗うのを見ていると、そこに時間が流れていることがわかる、という時間感覚にこれがやはりぴたっと一致するのだ。

第二に目が見者の機能に接近すると同時に、視覚的であるばかりでなく音声的でもあるイメージの諸要素は内的関係の中に入り、それによってイメージ全体が見られるだけでなく、「読まれ」なければならず、見ることができると同時に、読むことができなければならない。占い師の目に似た見者の眼にとって、感覚的世界の「字義性」こそが、この世界を本として構成する。

ジル・ドゥルーズ『シネマ2 時間イメージ』

第二に、ドゥルーズはこうした認知のあり方をものの感じ方ではなくて、そういうふうに「読める」と説明する。いきなり「読める」と言われても、ではそれはなんと「書いてあるのか」、「どういう意味なのか」と聞き返したくなる。しかし、ここでその「読める」というのは、100メートルを走る速さが9秒であるというような運動イメージの意味づけとは異なって、葉の表面を光がただ流れている、その字義的な「そのまま」の読みなのだ、とまあ、禅問答的な返答が返ってくる。一つ言い換えておくならば、葉の表面を光が流れるというのはそのまま視覚の描写である。つまり、見ること、感じること、っぽい。しかしあくまでそれは「読める」情報なのだ、というのが味噌なのだと思う。ドゥルーズがそう言っているのだ。映画である。表現であるからここではそれを「感じる」ではなく「読む」ということにしてしまおうという、きっとそういうことなのだ。そうすることで、ドゥルーズは世界が本になる、という。
一方、私が何度もここでことわっている「これは映画の話だ」ということにこだわるなら、世界は本ではなく映画になるはずである。そしてその映画は「見る」ものではなく「読む」ものであり、それも解釈やテーマや社会性ではなく「そのままものごとがそうなっている」というふうに読めるはずだ。
引用部分の最後に登場する「フレーミング」と「リフレーミング」というのそのまま撮影と編集のことと言えるだろう。つまり映画の制作過程そのものだろう。まとめてみよう。私たちが生きているここではそのまますぎて別の言葉で言い換えができない、ただ「葉の表面に光がただ流れている」というようなものの認知の仕方がある。それでそれは、意味とか目的に還元できないただものをそのまま「読む」ことであり、そのまま「考える」ことである。私なりの「面白い」映画という認知体験を「要するに」でまとめてしまうとこういうことにきっとなる。だからこうして「要するに」で説明してしまうことには少々の寂しさが伴う。まあ、それは一旦置いておくとして、この時間イメージのような意味とか目的から一旦解放されるから「つまり」とか「要するに」ができない。そういう認知体験というのはある意味、大変ノイジーな「本」と言えるのではないかと思うのだ。

・大人と子どもののこと

こういう説明は要約できない、要約できない、と繰り返しながら同じことを何度も同じ濃度で言い換えて書き連ねているような気がしないでもない。それでも私にとって夢中になれる文化体験というのはひとつ言葉してみるとこういうものだということができると思うのだ。
ただ、問題がある。このような身体感覚ではビジネスはおろか、日常生活がままならなくなる。身体の感覚が無意味なノイズに溺れていくマゾヒスティックな悦びの中に浸った状態では、他人とコミュニケーションしたり、自分を意味付けたり、役立てたり、示したりすることができなくなる。仕事をしていくという意味ではあまりに弱くて無責任になるのだ。それは子どもになるということではないかと思うのだ。
ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』に「スピノザ主義とは哲学者が子供になることにほかならない」という一説がある。つまり、ノイズを前提にしてそれを楽しむ人生というのは子どもの人生ということになる。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という問いが歴史についての考察から導き出すのは、そもそも社会人は本を楽しんで読む習慣を持っていないという考察である。それは読書が階級闘争の手段だからだ。だからこれとは全然関係のないところで、ノイジーな体験としての読書が提案される時、そもそも「なぜ私は(それでも)本を読むのか」という問いがすっぽり抜け落ちている。
私なりに答えはある。私などは、素朴に知らないことを知るのは楽しいではないか。と思ってしまう。というか、みんななにも知らない子どもだったのになにかいろいろ知恵をつけて大人になったのではないか。それは「みんな」そうなのではないかというくらいに普遍的なことだと思うのだ。不思議なのは、なぜ大人になるとそうではなくなるかの方なのだ。「半身」というテーマが出てきたときに、提案者は意図していないのではないかと思うけれど、私のほうで念頭にあったのは「大人」と「子ども」との半身で生きるという考えである。
だとすれば、次に着手しなければならないのは、大人の定義を書き換える作業なのだ。

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