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大人になるとある程度環境や人との関わるコミュニティー等が限定されてくるので、自分が関わる環境以外の事はあまり知らないのかもしれません。
私も小さな単位での生活、労働環境なので
大きな企業や社会での現実味を肌で感じることを避けていると言えば避けているのだろうと思う。

そんな私であっても少しその社会を垣間見る経験をさせてもらっている。
職業柄もあるのだが、すぐ目につくのが「発達障害」問題である。

ある一定数点在する「発達障害」が疑われる人たち。
その人自身がその問題に向き合っているのか?どうかは知る由もないが、
明らかに周りは困惑している。
迷惑を被っている人も存在する。

その人が困っているかどうかすら周囲にはわからない。
それほど、マイペースであり、無表情なのだ。

随分昔はADHD傾向の人が紛れていて
本人や周りは困惑していた職場。
が、ADHD傾向の人やずばりADHDであっても
それと相反するように才能や可能性があり、
彼らの欠点を補い、また、彼らを助けてくれていた人が存在していた。
だから、「発達障害」と診断してもらい、「配慮をしてください。」
という必要もなかったのだ。

でも、最近はおそらく「自閉症スペクトラム障害」の域にいる人が
多く、障害とするのか、一般の人の中での変わった人と見るべきなのか?が
わからなくなってきている。

自閉症傾向が存在すると
その困り具合や、程度によって周りがどうしてあげるべきなのか?が
全く違ってくる。
子どもではなく、まして大人の場合は複雑だ。

親の考えも大きく影響を受ける。
今回私が出会った人たちは、本人のみならず、両親の思いの影響を多大に受けているように見えた。
おそらく、両親はなんとか、どこかの職場で働いてほしい。
苦手なことではなく、出来ることで仕事をすることができるのではないか?と考えているのだと思う。

「はたして、苦手なことをしなくても良い職場など存在するのだろうか?」
「得意なことだけを仕事にできる環境はあるのだろうか?」
会社組織の職場という環境においての業務の殆どは
自分自身の得意なこともあるけれど、苦手な業務も必ずある。
それでも、苦手な業務を失敗をしながらでも、なんとかこなすことで、
組織での仕事ができるというのではないのだろうか?

得意なことだけ、あるいは、出来ることだけを仕事にと思うなら、
職人業と呼ばれることや究極の専門性や才能を求められる仕事、
あるいは障害者就労ということになるんじゃないか?と思う。

が、その「障害」を両親や本人が受け入れることが出来ない場合は
本人、あるいは周りが多大なストレスを被ることになる。

障害≠不幸でもない。

私たちはやがて年老いて全ての人が不自由な体に、脳になっていく。
でも、「幸せ」に人生を全うすることは可能だ。

時には「障害」を受け入れ、「幸せ」を手に入れることもある。
それは、あきらめるということではなく、
新たに人として成熟するために意味がある努力をするために
努力する方向を変え、努力する内容を変更すると言うことだ。

私が、どうにか手を貸してあげたいと思ったあの人は一体どんな風に考えているのだろうか?
手を差し伸べたのだけれど、それ以上は近づいて来なかった。
なんともはや致し方ないのだろうか。
自分の力不足と不全感が残る日々だ。


reduce you anxiety

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