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体験談はフィクションと同じ

「そんなの当たり前だ、わざわざ聞くまでもない」と思ったことはありませんか。でもそれは本当にあなたの当たり前ですか?もし最後まで読んでいただけたらもう一度この質問に戻ってきてほしいです。最近自分が大事だなぁと思った考え方です。

話は戻りますが題名で言うフィクションとは、いくら話を聞こうと、体験したことやそこまでに経験したこと、本人の感じた人生観のリアルは共有出来ない、あくまで自分のものではないということです。極論、他人の経験を聞いているようで、それがフィクションだろうとノンフィクションだろうと聞いている側からすれば分からないし、分からなくても問題はないですよね。

ここで言いたいのは、実体験と伝聞の間には大きな差があるということです。

実体験の例では、ちょっと海外に行った人が人生観変わったとか、日本はだめだとか、グローバルだなんだとかいう人いますよね。あれも一応自分の経験となってるから自分の軸を変えるほどの影響を持つ実体験であると言えます。

逆に伝聞の例を挙げてみます。高校3年生が1,2年生の後輩に向かって「今のうちから勉強しておいたほうがいい」なんてこと言いますよね。3年生からすれば高校3年間を過ごした”実体験”からくるアドバイスなのでしょうが後輩には響きません。(しかし、不思議なことに彼らのうちの何割かは同じことを後輩に伝えるでしょう。自分には響かなかったアドバイスを。)


この勉強の話を起点に、実体験と伝聞の違いを考えてみます。

まずなぜ、後輩には響かないのか?簡単です。勉強は早いうちからやったほうがいいに決まっているからです。”当たり前”です。では深く掘り下げてみるとどうでしょう。

きっと3年生は時間が少ない中で、何を目標に、どんな予定計画で、苦手の克服の仕方は、いざ勉強を始めるとき何から手を付けるのが効率的なのか、、、などを感じたうえで「今のうちから勉強しておいたほうがいい」と言っているのでしょう。もしこの考えまで伝わっていればもう少し響くと思いませんか?

当たり前と感じることは自分の中では常識であり、わざわざ再確認することでもないです。つまり、そんな当たり前の発言に対して「この人は何を感じなぜこの言葉を伝えるのだろう」なんて考えません。言葉以上の理解をしようとしません。だから、響かないし伝わらないんです。

きっと日常で誰かが言ってることは、皆さんが「当たり前のこと言ってるな」と感じることばかりだと思います。でもその言葉だけでは見えないものや、伝えた人が真に言いたかったことに、気づいてあげることができますか。何が理解できてないのかを知ること、つまり無知の知というのは案外難しいものです。

でもきっとそれができれば、フィクション程度にしか感じられない体験談もノンフィクションとして感じることができるのだろうと思います。


ここまで、「そりゃそうだ」と感じることをただただ書いてきたつもりです。でもここで最初の質問に戻り、「確かに」と思ってくれる方がいてくれたら少しうれしいです。

言われるまで気づけないことも含めて、当たり前なことを当たり前だと感じられる理解力が欲しいと思った最近でした。

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