【書評】ワレン・ファレル『男性権力の神話』

以下気づいた点の走り書き。

1. 著者ファーストネームのカナ表記から既におかしい。

カナ表記するなら、古風に「ワーレン」か現代風に「ウォーレン」だろう。

これでは、ネトウヨによくいる英語と教養両方の不自由な訳者にみえてしまう。

2. 全体的に古い。

昔の本なので仕方ないが。

2021年の人類は、ライオンのボスはメスだと知っている。これはナショナルジオグラフィック程度の一般常識である。

なので、映画『ライオンキング』の設定やあらすじには、色々な面でクビをかしげる。

「ライオンなのに、なぜオスばかり出てくるんだ?」

と。

そして

「古代から1990年代までは男性側の錯覚で科学が歪められ、人々は生物学から歴史学まで、男性中心の天動説みたいな疑似科学を信じていたのだ」

と知って納得する。

しかし『ライオンキング』が示すように、ファレルなどの1990年代までの人々は、古代の疑似科学そのまま

「オスは群れのボスであり、生き物それぞれの種の主役であり、オス同士で戦い、メスを守っている」

と思い込んできたのだ。

ファレルもそういう時代の制約のもと、本書を書いている。

現代の科学好きが知るとおり、1990年代の男性の世界観は、古代人と大差ない。

実際に男性権力wの社会だったため、男性からの共感がすべてだった。

科学がエビデンスを重視しだしたのは20世紀半ば以降であり、ファレルのように恣意的でも

資料の収集と解釈から「論理的かどうか」まで、男性中心の迷信とお気持ちと集団心理に依存してきたので通じた。

現代人から見てどう奇天烈でも、男性の集団ヒステリーに合えば真実とみなされた時代の疑似科学のひとつが本書だ。

たとえば日本は今なお男性社会なので、コロナ対策も合理性や論理性ではなく、女性(差別)に守られた男性たちのお気持ちと集団ヒステリーに振り回される

それを論理や合理性と称してきた歴史的誤認は、アンチフェミさんの自称「論理」が、いまや男の間でも嘲笑される一因だ。

本書ワレン・ファレル『男性権力の神話』は、そのように男中心に世界を解釈できた天動説最後の時代がよくわかる、いまわの呻きのような力作だ。

3. 前提となる教養の広汎な欠落

今どき「民主主義は失敗した」だの「帝政は至上」だの、「第三世界はかつての列強による支配に感謝すべき」と唱える先進国民は異常だろう。

同様に2021年の世界では「女性は男性に守られている。女性は男性に感謝すべきだ。」と唱える男性は異常だ。

それら支配は人類史に残る愚行であるが、1990年頃は正当な支配だと思いこむ人が普通にいたのだ。

3. 前提の欠落(1) 産業史や戦争史の無知

西洋において古代ギリシャから疑似科学を根拠とする男尊女卑が続いてきたのは事実であるし、差別は安価で人権無視可能な労働力を生むので根絶しにくい。女性は典型である。

男尊女卑は身分制の安定装置なので、各階層・各家庭に徹底され、男性が優先的に守られ、女性は男性よりも常に不利な立場に置かれつつ、老人子供などを守る。

身分の偉い人は人々を守らないから逃げ出せるし、死にたいときに死ねる。が、偉くない人は人々を守り、逃げられず、死ぬに死ねない。伝統的に成人男性に前者が多く、女性や子供は後者が多い。

男性用のガラスの地下室など元々無い。

貧困層や困窮母子用のガラスの地下室があるだけだ。

貧困故に危険な業務、たとえば軍に行くしかない階層の若い男性と同じ階層の女性は、彼らが捨てた若いシングルマザーなどだ。

彼女らは進学のために軍に入ることもできないし死ぬに死ねない。よほど幸運な例外を除き、ほぼ、貧困を再生産する。

だが軍に入った人が死ぬか成功するかは、結果論である。彼らが捨てたガールフレンドに申し訳無いほどの可能性と希望は、近現代社会において男性が保護され割り当てられたものだ。

基本的に女性は近代社会の保護対象ではない。近現代でも政治思想は長らく女性を人間扱いしなかったし、貧困母子は安価な労働力の供給源だから。

西洋人も女性and/or子供を酷使してきたことは日本のネトウヨすら知る事実である。

その反動か、かつて新興中流階級が女性保護を文明の象徴のように持てはやし、お飾り人形や万能女中ロボのように扱って苦しめたこともまた、常識だろう。

1990年頃のファレルの挙げる男性支配の虚構とやらは、2021年の人間から振り返ると、身分制の最後の名残だった男性支配の証拠に過ぎない。

男性による女性酷使の反動や反省の上にあった、かなり局地的、かつ一時的なものだった。

DVや家庭内暴力、貧困転落の懸念を考えれば、主婦業であれ主婦が兼ねる受付や秘書であれ、大抵の男性の職業よりさらにリスキーであり、リスキーだからこそ男性が担わずに来た。

俗に言う危険な業務にせよ、もしいつの日か男女平等が徹底され、男性が女性を酷使する危険性が減れば、就く女性は増えるだろう。

規制も平等もない場合、女性は一般的に男性よりも家族を養う責任を負うことになりやすいため、雇用者や男性に酷使されやすい。

現代でも、男性にとってメリットがなくなった危険業務には、戦闘であれ救命であれ、女性が増えるものである。

ファレルの信じる1990年頃の世界と2020年を比べると分かりやすい。マルクス主義フェミニズムは、大枠で正しかったのだ。

3. 前提の欠落(2). ギルド化への無知

洋の東西を問わず、安全で儲かる仕事は年配の男性集団が独占する形でギルド化しやすい。

ギルド的な集団は女性や立場の弱い男性を原則的に排除しつつ、彼女ら彼らの下働きに依存する。

産業のギルド化は新参者も才能も排除するため社会の発展を妨げるし、狭義のギルドが廃れた今も各国で女性その他マイノリティが就ける職業が乏しい理由だ。

20世紀半ばまでの女性にとっては、その職業の男性と結婚し、男性の下働きに就くことが就職同然だった。

古今東西、戦争であれ、産業であれ、重労働には機械や重機や家畜の代わりに奴隷や女性を使うものだった。

彼女らにはどう頑張っても、出世の目がなかった。

そのまま機械が発達した結果「危険な仕事」で機械代わりだった彼女らが排除され、男にもできる職業、男の職場になった。日本では半世紀ほど前のことだ。

非常に基礎的な歴史知識だろう。

3. 前提の欠落(3) アメリカ精神の根幹たる古代ギリシャ復古思想への無知

復古思想の時代、19世紀欧州や日本は古代ローマ帝国を模範としたが、北米は古代ギリシャを模範とした。

どちらも市民男性は特権階級として学問をし、政治をし、戦争に行く。

古代や中世哲学を知れば一目瞭然だが、古来、市民男性は重労働向きではないとされてきた。重労働は女や奴隷の仕事だ。戦争においても。

市民女性と奴隷は市民男性の資産とみなされ、当然、人としては戦争に行けない。社会は最終的に彼女ら彼らに守られる。

もしくは彼女らは、男性用の荷運び人、資材や、重労働要員、名もない単純な戦闘要員として随伴する。

ファレルのような1990年代の男性にありがちな妄想と、現実は異なるのだ。

ここで余談 英国海軍の心のうた「Haul Away Joe」と、艦上の母ちゃん

今も歌い継がれる英国海軍の歌「Haul away Joe」の歌詞は、なぜか艦上に母ちゃんがいて、重労働の息継ぎの合間に息子に語りかけながら、船をひき、帆を上げ、各地を転戦しているらしい内容だ。

軍隊が男の職場だという近現代の錯覚こそが実はただの錯覚で、かつては実際にそういう女性が大勢乗り組んでいた※。

※士官クラスは妻子を帯同しないため、女性の割合は通常半数を超えないが

彼女らは日本でいうと道綱母や孝標女のように家族の男性の名でしか記録がない。強制的な夫婦同姓ゆえに記録が夫や父や息子の名で済んだためもあるが、給料も地位も名前も記録されにくいので注目されにくく、統計も取られにくい。

本書の著者ファレルの時代には、ファレルの思い込みのように、存在すらなかった事になっていた。

しかし当たり前っちゃ当たり前だが、庶民は戦場や船上で所帯を持つものだったのだ。

余談2 女王ブーディカ(またはボンドゥーカ)と、女の戦いと男の戦い

人類は長らく、船上や戦場に家族を連れ回すものだった。

本書の著者ファレルたちの遠い民族的ご先祖であり救国の英雄(英雌?)であろう約2000年前の女王ブーディカも、ローマ人に強姦された娘2人とともに陣頭に立って反逆し、今で言うロンドン陥落を含めて連戦連勝、最盛期には約25万人の軍勢とその家族などの非戦闘員を後方に展開して連れていた。

彼女のスピーチ

「男は隷従して生きることもできるが、女は戦うしかない」

が示すように、彼女が頼む主力もどうやら女性。

他地域の反乱たとえばゲルマン人も普通に男女混成であるし、戦争に給料が出にくい社会において、社会を守る戦いが女性頼みになりやすいのは自然だろう。

ともあれローマ相手に連戦連勝のブーディカらは、最終的に、(当時の軍隊が普通に連れ歩く)家族を攻撃しないマナーをローマ側が破ったことで倒された。

マナー違反といえば女王ブーディカ側も、敵を捕虜にとって保護して和平に持ち込む国際法的な慣習※を無視してローマ人捕虜を数万人単位でなぶり殺しにしていたが**、それでもローマ側の記録者たちは女王らに同情的だった。捕虜を取る気がないらしい、と。

ファレルらが称する女性優遇と男性差別に似た現象が、古代ローマという男尊女卑の極みの社会でも見うけられるといえなくもない。

心理や脳機能に男に有利な違いなど存在しないが、優遇や人生経験から単純な力を過信しやすい傾向は生じるだろうし、「情状酌量の余地があるかないか」という差も生じることは想像しやすいだろう(むろん、個人差がある)。

暴力を娯楽とする人々が今より多かったであろう古代ならなおさら。

元々ローマでも嫌われ者の政治家が浪費の辻褄合わせで彼女の国に手を出した事件なので、戦後処理も古代ローマのわりに最大限に温情的だった。

*捕虜の保護はこの頃ですらマナーだった。我々日本人は20世紀になっても、ブーディカらほどの切迫した理由もなく、これを無視したが。

** 古代に、女性が主力と思しき軍隊で、男ばかりのローマ軍捕虜を何万人も連れ歩くのは無理がある。いちいち聖地で惨殺していたのは何かの思いやりかもしれない。


今現在の戦争史では、古代ローマ軍は男の軍隊と男の戦争の典型扱いである。

つまり、基本的に彼らの戦いは人々を守るための戦いではなく、偉い人を守るために自国民すら人々を踏みにじるのが仕事である。基本、よけいな戦いだ。

しかし給料が安定的に出るし地位にもつながる。彼らに侵略される側に比べれば、ずっと楽な仕事だ。

なので男性が占めるし、名前と給与と地位や死傷の記録が残りやすい。統計も取りやすい。

反面、ブーディカの反乱軍は、女性の戦闘集団と女性の戦いの典型といえる。

その時代の正規の戦争や軍隊として認められる可能性すら低いが、真に世界を動かす戦いがあるとしたらこのタイプの戦いであり、21世紀に入る頃から注目されている。

社会の女性や子どもや老人病人その他を守る戦いなので、主力を女性が担いがちである。

職業的な軍隊でもなく、給料もロクに出ず名誉もないので記録に残りにくい。後世の娯楽のネタにもなりにくい。

なので二次大戦やヴェトナム戦争などの記憶が薄れた1990年ごろのような時代になるたび、ファレルのような錯覚や被害者意識が生じたりもする。

ファレルには1990年頃の男性らしく、ろくなエビデンスがない

ファレルが1990年の男性にありがちな集団心理に依拠し、雑な証拠のまま、女王の治世でも戦争の犠牲は男性ばかりだとして例示したエリザベス一世であるが、実際にはその頃最強とされた海軍の艦船でさえ、21世紀の知識では前述のように名もない女性が多々乗っていた。

日本の戦国時代もそういう感じなので再現映像も最近はそうだ。

洋の東西を問わず、

戦争で母ちゃん姉さんカノジョを使い捨ててきた長い歴史と現実をなかったことにしたい、わかるといえばわかるがズルい男心

が近代のどこかで働き、あたかも古代から男が戦って女を守ってきたかのようなお伽噺が流行ったのだろう。

男尊女卑が身分制の一種である以上、大抵の男の戦争は女にとっては支配者の交代に過ぎないだろうにね。

そんなこんなで古代ギリシャ民主主義への憧れで作られた北米社会において、自由市民男性は特権階級として軍役を課された。

古代インドのクシャトリヤのように、軍事が特権であるケースは古今東西よくある。

古代ギリシャ・ローマを模した近代欧米の市民男性を「二流市民」と称したり、男尊女卑が女性を守ってきたかのように称するのは、あまりにも無理がある。

通常は女性を酷使する世界において、特権階級である先進国男性に、女性をことさらに保護する文化があったのは分かるが。

3. 前提の欠落 (4)暴力を男らしさと見なす文化はよくあるが、女らしさと見なす文化は稀


21世紀の科学的な常識では、脳や心理や性的指向には男女差などない。

日本で俗に言われる男女差はほぼニセ科学である。

生物学的にありえないことは医学的にもありえないし、医学的にありえないことは心理学的にもない。

とはいえ政策も産業も女性蔑視に依存してきたため支配を正当化する疑似科学は多いが、今時そんなもんを科学だと信じる人は映画ジャンゴのディカプリオなみに笑かすクズ扱いされます。

日本のアンチフェミさんのように女性の反発を「感情的」と評する習慣も、その手の愚行や「庶民は感情的」と称した中世貴族なみのただの集団ヒステリーですし、アンチフェミなんかじゃない大多数の全男から、そう扱われます。

閑話休題。

男女差がない以上、男性の犯罪その他暴力も女性並みに少なくて良いはずだ。

最大の差異が文化的な男尊女卑と、社会が優先的に男性を保護する習慣である以上、「男らしさを見せたい」などの大変くだらない理由で死も起きがちと考えてよかろう。

日本は昔から、大の男がお気持ちを害されただけで自殺する文化で世界中で有名だ。

また、世界には古代のケルト人や近世までのインド人のように大の男が喜びの表現などで自殺する地域も多々あったし、その場合も自殺は男らしい行動だった。

そういった自殺は「男だから、人々を守らなくていいから」「人を守る義務は女性の義務で、男は自由だから」とも言える。世界が一律にキリスト教やイスラム化されて減ったが。

※インドの古典的な笑い話に「わたし、とんち女房!新婚の夫と義父が某神殿に行ったんだけど、二人揃って感動しすぎて神前で心中しちゃったの!お家はトラブル山積、私一人でどうしよう?」的なテンプレがある。笑い話である。

他害や自殺の理由が深刻になってきた現代でも、「男らしさアピール」がかなりの数含まれるだろう。

女性の犯罪と加害は「女らしさ」に反している。このことが件数が少ない主要因と考えて良い。

しかも彼女らは社会から保護されないまま、家族を守る役割を負う。

よって女性が加害する場合、たいてい自他のために戦わないとならなかったか、切迫した理由があるか、仲間意識などかだ。

前2者は情状酌量されやすい理由でもあるだろう。

ちなみに女性シリアルキラーは慈善家の偽装や良妻賢母の偽装など、「女らしい」と褒められたい欲が原因になりがちと言われる。

4. 火事と喧嘩は江戸の華的なケンカ文化が根強いアメリカの20世紀後半の成人男性が何をいうやら

ウェストサイドストーリーを思い出すと分かりやすい、あれだ。

ミレニアム世代以降は大人しいですが、70年代のスプリングスティーン『ジャングルランド』なんか、人々が本当に楽しそうに命がけでケンカしています。

男も女も喧嘩と喧嘩見物のために街に出てきて、野次馬の女の子はウキウキとそのへんの車のリアビューミラーで化粧を直したりしますが、別に襲われません。

男で少し強そうならケンカを売られます。自分よりちょっと強そうな相手にケンカで勝つと男の株が上がるシステム。

加害者も被害者もケンカしたくて来てるので、情状酌量されにくい。

ケンカを買わないとファレルのいう南北戦争の女性のように、野次馬がヤジを飛ばしたりします。

翌朝までに男性の逮捕者や死傷者数は積み上がるけれど、女性は別に増えない。女性による加害があっても、大枠で正当防衛かなんかでしょう。

この世は弱肉強食じゃなくて【強】肉強食なんですよ。

強い者が食われるとこがポイント。

火事と喧嘩は江戸の華的なストリートファイト文化がまだまだ根強いアメリカにおいて男の加害者や死者が多い理由や、情状酌量の余地がないことくらい1990年頃のアメリカ人男性なら体感的に分かるんじゃなかろうか。

だいたい男何人か連れで遊びに行くと、一番体格のイイヤツに誰かが丁寧に喧嘩を売ってくるので愉快なアレです

姉さんや婆ちゃんは基本的に襲われません。強そうな男を倒す以外、男仲間での自慢にならないから。

コロナの今みたいによほど金コマならともかく、お婆ちゃんが迷い込んだらチンピラ総出で「大丈夫かい?送るかい?」と最寄り駅やバス停まできちんと送りかねない。

たいていのチンピラは幼少から男に加害されつつ姉ちゃんや婆ちゃんに守られて育つので、婆ちゃんに弱い。

結論 絶対的な正義は存在するし、人は歴史を捏造できない

絶対的な正義は古今東西、全く変わらないまま存在する。

たとえば「なにものも本人の意思に反して傷つけない」「同、殺さない」の2軸の交わる原点のように。

人間は誰もその絶対的正義の位置に立てないし、日々何かを殺して何かを傷つけないとならないが、近づく努力は無駄ではない。

そして歴史は後世の人間が、絶対的な正義を基準に裁く。

たとえどんな権力でもいま一瞬の世界の現実を捏造できない。そして現実は時々刻々と過去の歴史になって行く。

おかげで誰も歴史を捏造できないし、我らが日本のような弱小や敗者は歴史捏造を試みがちだが、数十年でバレる。

歴史修正主義者が「自分たちが被害者だった」「よい支配者だった」と歴史の捏造を試みても、後世が捏造者を裁くものである。

日本人が「アジアで大日本帝国が感謝されている」と思うとしたら異常だろう。同様に、現代ではミサンドリーを女性として健康な精神状態とみなすし、ミソジニーは異常とされる。

本書は、1990年代を最後にネットに沈んだ、おそらく「自分らが世界を守ってきた」と思いたい先進国自由市民男性独特の悲壮な被害妄想の産物だ。

インセル男性なら共感し納得するだろうが、他の人々なら爆笑苦笑必至だろう。

紀元前から紀元1990年代までの科学において暗黙の大前提だった「男性は女性より知性も理性も優れる。男性が文明を作り、女性を守ってきた。女性は男性に感謝すべき」という神権政治に似た壮大な宗教的妄想は、数多くの「エビデンス」を生み出した。

それを集めた著者は

都合のいい時期の都合のいいデータだけチェリーピッキングを行い、隙間を妄想で埋めている。

1990年代前半は、本書のように実はエビデンス皆無かつ論理性皆無の意見であっても、ただ当時の男性の共感だけを得られれば「論理的」と自称できた最後の時代だ。

「女性を守る文化」の前提にある女性搾取

もともと西洋近代の「女性を守る文化」は、西洋自身を含めて世界中どこでも男性が女性を家畜代わりに酷使してきたからこそ、下層や野蛮に対抗するブルジョワ階級と文明の証明としてことさらに強調されたものである。

危険業務にせよ、もともと女性を重機替わりに使ってきたが登用しない文化があり、女性がそのまま機械に置き換えられただけである。我が国もそうだ。

本書はそういう様々な常識を欠くまま、全く目新しさのない男性たちの死に関する都合のいい資料の隙間と隙間を、1990年代までの特権意識と被害妄想で埋めた感がある。

1990年代のアンチフェミニストはこういうニセ科学と歴史修正と被害妄想の中で生きていたのだな、と思わされる。