見出し画像

「嫁」に根付く家制度の意識を考える

最近、「嫁」という表現が叩かれる場面を頻繁に目にする。
松山ケンイチの「嫁」発言に賛否

「うちの嫁」は会話の中でしばしば聞くのに対し、「うちの婿」を全くと言っていいほど聞かないのは、1947年に廃止された明治時代からの家制度の感覚をいつまでも引きずっているからにほかならないだろう。

家制度は戸主(家長)が絶対的な戸主権によって家族員を支配・統率する家族形態だ。長男が戸主となって、家の財産をすべて相続し(家督相続)、他の家族に対し強い支配力を持つ。男の跡継ぎを産まねばならなかったり、女の子しか産まれなかった場合に婿養子を取らねばならなかったりした本制度は、日本国憲法の施行に伴って廃止された。
家制度廃止に伴い、戸籍は戸主と家族を記載する家ベースの登録から個々人の登録へと変わったものの、選択的夫婦別姓が認められていないなど、家意識はいまだ根強い。

「嫁」という言葉に根付いた制度が、旧時代的であるのは言うまでもない。だから、他人に強要はしないけれども、個人的には「妻」と呼ぶほうが好感が持てる。

家制度特有のワードとして、「本家」「分家」「主人」「家内」などの言葉も挙げられる。
本家や分家の考え方は地方の農村などではいまだ根深く、冠婚葬祭の際には令和の時代でも色濃く感じられることも珍しくない。
考え方はさておき、実際のところは、結婚すると新郎新婦ともにそれぞれの親の戸籍から離れて新しい戸籍を作ることになる。ごく普通に使われている「入籍」という言葉もじつは旧時代の遺物で、「創籍」などの言葉のほうが本来は適切だろう。
そのため、「嫁に行く」や「婿に入る」という概念は現在の法律上は存在しない。結婚すれば、どちらも親から離れて、新しい戸籍(家庭)を作るだけのことなのである。

ここまで家制度について述べてきたが、「嫁」批判について話を戻そう。
「嫁」に対し、「女へんに家と書くからけしからん!」と言って顔を真っ赤にして文句を言うのは、批判のベクトルとしてどうもおかしいと感じる。
嫁という言葉や漢字がいつ成立したかは知らないが、明治時代にできた家制度よりももっと昔からあるものだろうし、文字にケチをつけたり語源に文句を言うのは、「親切」に対して「親を切るなんてけしからん!」と言うのと変わらないと思うのである。

つまり私が思うに、「嫁」の文化が確かにあったのは事実なわけで、「嫁」が悪なのではない。上述した背景を踏まえて「古臭い言い方」というイメージが定着していけば問題ないと思う。そして私の感覚では、すでに少しずつそういったイメージが付き始めているのかなというのが実感だ。

もし、この内容にご賛同いただけるのであれば、「嫁って表現、ちょっと古臭いなァ」と思っていただければ幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?