見出し画像

娘達のお墓参り

いつもなら月命日や盆なども
訪れて供養をお願いしてきた。
今年は
金銭的事情や身体的事情により
それすらままならなかった。

とはいえ。
命日や盆。お彼岸。など、
都合のつく時は供養をしたいと思っている。
それは大事な家族であり
その子達にたくさん救われてきたわたしの
今唯一出来る事だから。

ここのお寺はペットなど
動物を弔ってくださるお寺さん
ココに犬・猫一緒にいたみんなが眠っている。

個々お骨は小さくして持っていたり
首輪などなにかしら自分の近くに置いている。
何故か我が家にはメスの子達が集まっていた。
なので娘達なのだ。

自身が子供の頃一緒に過ごした子も
当然娘扱い。
あの子達無くして
自分は生きていられなかったからだ。
それだけ拠り所で
感謝も愛情も今でも感じている。

今一緒に訪れる くるみ さんは
当然末娘になるのである。
どの子達も先住犬猫達の供養には
必ず連れ回される習わし。

当たり前の様にウチの子達は
みんなのお骨の所まで行く。
みんなみんな家族だから。

わたしの勝手極まりないエゴ。
わかっている。

でも今も家族の繋がりを切れない
依存している存在なのだ。
肉体が骨だけになろうとも。
その魂がどうなっているかわからずとも。

人との繋がりが何より難しいわたしには
この子達との繋がりは何より切れない絆なのだ。

また近いうちにくるね。

そう必ず口に出して骨壷を撫で。
どの子達とも別れをする。
そう言って別れないと離れられなくなるからだ。

どの子達も寄り添ってくれ
言葉がわからずとも気持ちを汲んで
離れずいてくれてた子達なのだ。
それは犬だとか猫だとか人間だとか関係ない。
そんな子達だった。

都合で振り回した事もあったと思う。
それは人として生きるため
あの子達の生の大事な時間を
孤独な時間としてしまった事も
あったと思うからだ。

…なのにも関わらず
どの子達も最後の瞬間に
自分を待っていてくれた。
「ありがとうね」と伝える時間と
灯火が消えるその瞬間に立ち合わせてくれた。

悲しい時間ではある。
が。最後を看取れる事。感謝を伝えられる事。
その猶予を与えてくれた事が
何よりも代え難かった。
苦しみ抜いた子もいた。
すーっと寝る様に逝った子も。
なのにも関わらず。

生の最後。
一緒に居られる時間の最後まで。
気にしてくれて。寄り添ってくれた。
そう思えるのだ。

みんなの眠る場所で必ずいろんな写真を撮る
良かろうと悪かろうと。
あの子達への手向けでもあり
この時間の記録。
(今回は別であげる事にした)

短い生なのかもしれない。
それは人と比べてしまうからで。
でもあの子達は
わたしにはかけがえのない時間を
共に生きてくれた存在。

それはこの先もわたしの生が尽きても
永劫変わることのない大事な大事な絆なのだ。

みんなありがとうね。
また近いうちに来るね。

今日もその言葉を残し帰路に着く。
あの子達を。
してくれていた事を。
忘れない為に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?