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11月8日いい刃物の日に気づいた「自分はこんな子供だった」

11月8日、今日は「良い歯の日」そして「いい刃物の日」刃物の日は語呂合わせと「ふいご祭り」が行われる日ということで関係団体によって制定されたそうです。

「ふいご」は刃物を作る時に火力を強めるために使った送風機。童謡「村の鍛冶屋」の真ん中あたりにも「ふいご」という言葉が出てきたのを思い出します。

多分、昔は村に一つぐらい鍛冶屋さんがあったんだと思います。
私の実家のそばにも屋号が「鍛冶屋」という家がありました。
「鍛冶屋の嫁さんといえばあの人」という具合に、名前を知らなくても大丈夫。
父の実家は橋の袂に家があったので「橋場」
油屋とか種屋といったお店の屋号が多かったので、橋場は珍しかったかも。
「橋場の目の悪い孫」といったら私のことでした。


父の実家は「橋場」
父の兄の家は洋服の仕立て屋をやっていたので「店」
うちだけ何もない。

「なんでうちは〇〇って言わないんだろう?」

五男でサラリーマンの父に屋号なんてあるわけないのですが、子供の頃の私には不思議で仕方ありませんでした。

このほかにも私には不思議なことが沢山あって、それを黙っていることができない子供でした。

戦前からの古い家には日の丸の旗があって、明治生まれの祖母は国民の祝日になると必ず門のところに旗を立てていました。
「どうしてうちには旗がないの?」
と母に聞きます。

唐草模様の風呂敷包みを背中にも背負ったおばあさんが家の前を通ると
「あのおばあさんは泥棒なの?」と大きな声で母に聞きました。
読んでいた絵本にそんなことが書いてあったから、同じなのかと思って聞いてみたのです。

もちろん、泥棒さんなんかじゃありません。昔の人はカートなんてなかったので、重いものは風呂敷に包んで背負って運んでいました。

こんなことだけではなく、母は何を聞いても私が納得するような答えを出してくれませんでした。
というより、「黙っていなさい。」と言われることが多かったし、面倒な時には聞いていないふりをしていました。「聞こえないふり」は子供が見てもすぐにわかって、「何を聞いても答えてはくれないんだな。」と思うようにもなりました。
そして向き合ってもらえないことを寂しく感じでいました。

母は「うちだけじゃない。みんながそうだ。だから面倒なことは聞かないこと。」と言いたかったんだと思います。

そして何にでも興味関心を持って疑問に思う我が子を、ちょっと持て余していたのかもしれません。
そして私は「大人が面倒だと思うようなことは言わない子供。」になっていきました。

今でも私と母の間にはなんとなく溝があるというか、合間見えないものがあるというか、そんな感じがしています。
母は来年春で85歳。
この溝を埋める努力をするには、少し時間が足らないようです。

埋まらないならそれでもいいと思います。
なぜなら、私は私の思いを自分で感じて探求していく方法を知っているし、もう寂しいとは思わないから。



子供の頃からの思い。
最後まで読んでいただきありがとうございます😊


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