アメイジンググレイスと追憶
だいすきよ
わたしは毎日のように娘の小さなからだを抱き締め、こうささやいている。
これは母としての本能のようでいて、実は「一番身近な存在である親から、たくさんの愛情をうけることで優しい心が育まれると良いな」という、切なる祈りを込めているのかもしれない。
娘を出産してからと言うもの、わたしはとにかく幸せなのだと思う。成長と共に自我が芽生え、喜怒哀楽がはっきりしていく姿に驚かされてばかりいるし、時の流れと共に彼女との関係性が変わっていくことも楽しみだったりする。もちろん、彼女にとっての母であることは生涯変わらないけれど、時には彼女の親友となって悩みを聞いてあげたいし、いつか人生の先輩となって助言をしてあげることもあるかもしれない。女性同士という仲間意識が芽生える日の訪れや、同じ母親として語り合えたらどんなに素敵だろうかと夢見たりもする。彼女が成長する中で、どんなものに興味をもつか、どのような職業を選択するかはわからないけれど、ただ、彼女の母としてだけでなく、共に生きていくなかで、豊かな関係性を築けたらと願っているのかもしれない。
実はこうした考察のきっかけとなったのは、昨日みた一本の動画だった。
10年前の3月11日に亡くなった方々を追悼するため、彼らに想いを馳せながら、二人の女性バイオリニストがアメイジンググレイスを合奏している短い動画を見たのだ。この二人の女性、実は母と娘で、震災のあった10年前、娘さんはまだ小学4年生だったらしい。今ではスラリとした体躯で母親の身長を抜き、赤い口紅がよく似合う大人に成長されプロの演奏家となった姿を見ると、10年という時間を目の当たりにしたような気がした。悲しみを抱える全ての人を癒すバイオリンの音色は、Instagramに掲載されていたほんの数十秒だけだったけれど、そのワンフレーズを繰り返し聴きながら、わたしはなんだか泣けてきてしまった。
「時間とはなんだろうか」
アメイジンググレイスを聴きながら、ひとしきり涙が流れた後に、壮大な問いが頭を巡った。わたしが子ども時代に過ごした10年、わたしが社会に出てから過ごした10年、小学4年生の女の子がバイオリニストになっていった10年。いろんな10年と、いろんな時間の過ごし方がある。
国語辞典を開けば、「時間」とは「二度と元には戻せないもの」と書かれていた。また、「人間の行動を始めとするあらゆる現象がその流れの中で生起し、経験の世界から未経験の世界へと向かっていく中で絶えず過ぎ去っていくことととらえられるもの」らしい。この難しい文章をわたしなりに解釈すると、時間はただ未知の方角にだけ進んでいて、いつもすまし顔、一時停止することも叶わない、ということなのかと思う。1歳の娘にとって10年は、過ごしたことのない時間だ。だからこそ、彼女の未来は失敗経験を経た臆病さのかけらもなく、ただ神秘的なまでに透明だ。
しかし自分自身が過ごした子ども時代を振り返ると、暗い影がよぎるのだ。
子ども時代の10年間
わたしは父への畏怖と共に育ってきた。そして、繰り返し経験した恐怖はトラウマとなり、実はその呪縛から、いまだ完全には解放されていない大人の一人でもある。
「親の世代は、そうやって厳しく子育てすることがきっと普通だったんだよ、きっとお父さんもそのように育てられてきたのだろうし。もう勘弁してあげなよ」そうやって、夫は幾度となくわたしを優しく諭してくれる。けれど孫に会わせるために帰省しようと促されても、どうしても重い腰を動かせない自分がいたりもする。夫からみるとわたしの態度は頑固すぎるように見えるのかもしれないけれど、実際、わたしを頑なにさせるのは意地ではなく、今なお消えない父への恐怖心からくるものだ。なにより、わたしはもう自分の人生を歩んでいるので、自分を守るために「いつも父から好いてもらえる態度」をとることが億劫になってしまったのかもしれない。
誤解がないように言うと、父はまちがいなく善人である。暴力を振るうような人でもなかった。もともと子どもをみれば見境なくちょっかいだす遊び心のある人だし、人一倍に正義感も強い。カミナリ親父で、曲がったことが大嫌いだからか、妙に短気で不器用。映画「男はつらいよ」に出てきそうな昭和の人間と言えば聞こえは良いかもしれないけれど、わたしには恐ろしい父だった。父から叱られたり、近寄り難い態度をされたり、話しかけても無視されたり、いないように扱われたことの恐怖で涙が込み上げ嗚咽するような経験は幼少期から数え切れないほどあった。成人した後も実家に暮らしていたので、社会に出てからも同じようなことは何度もあった。ふとしたきっかけで父が不機嫌になり、一言も話さず、家族全員を無視して、ただテレビを見ている、しかめ面の横顔だけが見えるような日だ。父の怒りの矛先が母であれわたしの姉であれ、それは誰でも良いのだが、自分に向けられた時の恐怖は段違いだった。そんな時、成人してからのわたしは「絶対に父の前で泣いてなるものか」と歯を食いしばって耐えようとするのだが、ある時、あまりに力を入れすぎて脳みそに血が上ってしまい、自分でも気が付かぬうちに鼻血が垂れた出来事が忘れられない。父が閻魔大王のように鎮座した食卓では、家族の誰もわたしを慰められる訳でもなく、ただ父への恐怖と時が過ぎ去るのを待つためだけの沈黙があるのだ。あの時流れていたテレビのバラエティーはきっと面白かったはずなのに、生き地獄のようなリビングでは、ただ馬鹿馬鹿しいほど大袈裟に見えた。
わたしの茶碗に盛られた白ごはんが1粒垂れた鮮血で赤く染まっていた視界もよく覚えている。そういう絶対的な緊張感の走る家庭内での絶望感を幼少期から経験し続けてきたのだ。だから、自分の心の傷はきっと癒えることはないのだろうなと思う。母は、そんな父を支えるように一歩下がって共に歩んできた人で、私からするとワーキングマザーの大先輩でもあるが、元からか父との暮らしが長いからか、同じように短気な人だった。初めてできた年上の恋人に失恋し、泣いていた夜。わたしは母に慰めてもらいたかったが、泣いているわたしを見つけてなぜか母は苛立っていた。「いいいい。そんな話は聞きたくない」と目も見ずにキッパリと言われたことも忘れられない。あの時、わたしは21歳くらいだった気がするけれど、母という人間のぶっきらぼうさにようやく目が覚め、完全に打ちのめされたのだと思う。
そんな両親の元ではあるが、わたしは不自由ない生活をし、成人するまで良い学校にも通わせてもらった。にも関わらず、「いまだに父が怖い、母がちょっと苦手」という理由だけで、実家と距離をおいている。もう大人なのに、両親も完璧な人間ではないのだからと譲歩することさへできない。そんな自分が情けなく、恥ずかしく、両親に申し訳なくて仕方がないのだが、守ってもらえたという記憶や、寄り添ってもらえた安心感をあまり思い出せず、実家に安らぎを感じられないのだ。もしかしたら、わたしには計り知れないほどの愛情を注いでくれていたかもしれない。けれど、深い傷となるような父への恐怖やそんなわたしを守ってはくれなかった母のことが色濃くわたしの記憶に残ってしまった。
だからわたしは結婚について、まったく興味がなかった。夫に出逢う直前も、友人たちと遊び、楽しい恋をして、充実した仕事ができればそれでわたしの人生は十分だと思っていた。わたしの発想は虐待経験者の怯えと同じで、「あんな経験をした自分も加害者になるのではないか」という考えがあった。自分の中に怒り狂う鬼を飼っているのだと思う。両親から受けた心の傷の近くに住まうその鬼は、わたしの傷口を舐めながら絶対に死ぬこともなく、わたしの傷が癒されることを妨害している。そして何かのきっかけでわたしに憑依し暴れ出すのだ。わたしはその鬼の存在を知っているから、自分が結婚することで、子どもを苦しめたくないと思っていたのだと思う。きっと、父のように家族を萎縮させるような日がくるだろうし、母のように娘に対してぞんざいな態度をとるのだろうと。
けれど、6年前に出逢った夫が、わたしを暗い孤独の底から見つけだしてくれた。彼と出逢って、本当は家庭を持ちたかったのだと自分の潜在意識に気がつくこともできた。彼との暮らしがわたしを安定させ、負の連鎖を断ち切るきっかけをくれたのだと思う。彼の優しさが、わたしに癒しをくれた。彼こそがわたしの家族なのだと思った。
「ずっと探してたのに、今までどこにいたの」
夫がわたしに告白してくれた日、わたしはそう言った。夫はわたしの寸劇に付き合うように「俺だって待ってたんだよ。でももう会えたからいいじゃない」と言っていた。
実は、子ども時代の記憶による恐怖の呪縛が解けはじめ、今のように心の整理ができるようになったのはつい最近のことだ。娘を出産し母になったことで、わたし自身の長かった「子ども時代」がようやく終わりを告げ、父や母の目を気にしなくなったように思う。
アメイジンググレイスを聴きながら、この世に起きてしまった悲しい出来事や、過ぎ去った「時間」や、まだ見ぬ「時間」、そしてわたしの暗い過去や心の傷が次々と連想されて、わたしはまた泣いた。
10年前のあの日
わたしは渋谷にいた。当時の勤務先は高いマンションの上階にあり、わたしは同僚と一緒に何十階分も非常階段を歩いて地上まで降りたはずだ。船酔いしたようなめまいや、心細さまで、ありありと思い出せる、恐ろしい出来事だった。
家族の状況がわからず「とにかく家族の元に早く帰らなければ」と、発生から6時間かけ帰宅難民の行列の中を必死で家まで歩いたことを思い出した。家に帰ると母がすでに辿り着いており、二人で声をあげて抱き合ったことを思い出した。地震発生直後から安否状況がわからなかった父が、寝食をすることも最寄りの集会所に身を寄せることもなく、ただひたすらに神奈川県のはずれから東京を横断し、埼玉県まで12時間かけて歩き続けて家族の元に帰ってきてくれたことを思い出した。父の顔を見て、心の底から安堵したことを思い出した。
いったいどうして、わたしは忘れてしまっていたのだろうか。
ある年、母が突然倒れた朝。厳格な父が初めて見せた狼狽した姿や、病院で憔悴しきっていた後ろ姿までも、フラッシュバックのように思い出し、アメイジンググレイスが流れる自宅のリビングで一人、突然涙が止まらなくなってしまった。
幼い頃から勉強ができた姉に引け目を感じ「将来はクリエイターになりたい」という夢を持つことに悩んでいたわたしが、勇気を出して進路希望を話すために駅前で父と待ち合わせした高校3年生の夏の日。「これからの時代はただ大学に入って総合職に就くんじゃなくて、専門性をもつと良いよな」と意外にも背中を押してくれた父の姿を思い出した。40年以上前、広島県の田舎町から上京し早稲田大学の蹴球部でディフェンダーとして活躍した父は、日本の大手電気機器メーカーに就職してからも実業団でプレーを続けた。しかし、家族ができた時期と選手生命の終わりは重なり、父はサッカー選手のユニフォームを脱ぎエネルギー調達部の主任名刺と黄色いヘルメットに持ち替えたのだ。「自分は選手向きで指導者向きじゃなかった、だから引退しかなかった。それで良かった」と父の口から聞いたのは、いつだったろうか。それが本音なのかはわからない。けれど、今なおJリーグを欠かさず試聴し、甥が所属しているサッカークラブを見に出かける父を知っているし、日本サッカー界に残り、指導者として活躍している当時の蹴球部の仲間達をテレビで見ている父の後ろ姿も私は知っている。そんな父は、2年前、神奈川県の海沿いにある工場エリアで35年に及ぶ長い勤続を遂げた。実際、どのような仕事をしていたのかは、よく知らない。口下手なのだ。しかし、わたしが小学校を卒業する時にPTAにいた父が寄稿した素人エッセイは今でもよく覚えている。「娘の素直さが好きだ」、そう書かれていて、父の口からそんな言葉が出たことに驚いた。直接言われた言葉ではないが、父の言葉を初めてまともに聞いた気がした。
娘が生まれてすぐの産後1ヶ月間、実家に身を寄せていたわたしは、落ち着かない実家と父へのトラウマ、出産によるダメージによって案の定、治癒するまでに半年以上もかかる重いうつ状態になってしまったが、そんなわたしと生まれたての赤ん坊を実家で介助してくれたのは他でもない母だった。
いったいどうして、わたしは忘れてしまっていたのだろうか。
時間が「二度と元には戻せないもの」であるならば、誰にも過去は変えることができない。けれど、アメイジンググレイスの調べと共に亡くなった方々を心から追悼することなら、わたしにもできるのかもしれないし、父への恐怖心が拭えなくても「ありがとね」なら言えるのかもしれない。娘のために母がせっせとつくってくれる手作りの子供服を見るたび、複雑な気持ちになることも、いつかなくなるかもしれない。
これからどうやって生きていくのか、未来をどうしたいか、それを決めることはできるのだなと、そうするしかないのだなと、ぼんやり考えていた。
だから、前を見て、わたしは人生を進んでいこうと思う。夫にいつまでも好きでいてもらえる妻でありたい。春になったら娘をつれて帰省したい。明日も、娘に「だいすきよ」と言いたい。10年先も、そのずっと先も。
2021年3月11日、そんなことを考えていた。
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