自由な学校も良いけど、それで勉強できるの?という疑問に対して
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自由な学校も良いけど、それで勉強できるの?という疑問に対して

まおい学びのさと小学校

先日yahooニュースにあがったお蔭で「まおい学びのさと小学校」の教育について各地からの問合せが増えました。東京のテレビ局などもいろいろな形で取り上げてくれました。
理念に賛同し寄付を考えてくれる方もいて、ありがたい話です。

マスコミでは、「宿題もテストもない」「通知表もない(正しくは「数値評価の通知表がない」ですけど)」「楽しくなければ学校じゃない」「自由な学校」といったキャッチーな話題が前に出がちで、賛否両論賑やかです。もちろん賛否両論あってしかるべきだし、そもそも教育にたった1つの正しい考え方などあり得ません。私たちは日本の教育に新しい選択肢が必要だとは考えますが、何も従来型の教育システムをダメだ、なくせといっているわけではありません。(まあ、今のままではこれからの社会に対応できないとは思ってますけど・・)ただ子どもたちには多様な選択肢が必要なのは確か。

ですから、賛否両論、全然かまわないのですが、どうもある部分で根本的な誤解があるような印象がぬぐえません。おおよそこの学校の理念、コンセプトに対して「いいよね、こういう学校。自分も子どもだったら行きたいくらい」と好意的に受け取ってくれる大人が多いのですが、そんな方でもたいてい次のような心配をなさるからです。

「確かに小学校は楽しく学べていいかもしれないけど、本来学習するべき内容が網羅できなくて、中学校で公立に行ったり高校に進学したときに勉強について行けるのかしら?大学進学も難しいのでは?」
「テストも数値評価もなくて競争しないまま大きくなって、社会に出たとき、この競争社会の中では通用しなくなるのでは?」「苦しんで勉強しないと我慢の大切さや忍耐力も身につかないのでは?」
こうした疑問を聞くたびどうしてもモヤモヤしてしまいます。どれも心配はいらないんだけどなあ、むしろまったく逆なんじゃないかなあ、心の中ではそういいたいわけです。どう説明すればすこしは納得してくれるだろうかとつい考えてしまうのですが、なかなかうまく説明できません。同様の理念で30年前に開校したきのくに子どもの村学園では、ちゃんと対応できてますよとか、自分の教員の経験の中で確かに実感していますとか話すけれど、他人頼みに過ぎない気がしてしまいます。

(ここからが、村重の Facebook の続きです)

まず、ふつうの学校ならやるべき学習内容が網羅されていると思うのが大きな誤解だと思っています。仮に、超スーパーな先生がいてすべての内容を完璧に六年間でこなしたとして、それはたぶん先生の側の自己満足に過ぎないのではないでしょうか。教師側がこなすことと、それを子どもたちが受け取ることはちがいます。たぶん多くの子どもたちは置き去りにされることになるでしょう。いや、ここにもスーパーな子どもがいて、仮に完璧に学習内容をクリアしたとして(そんなヤツめったにおらんけど・・)、でもやはり残念ながらそれも成功した学びにはつながらないと思います。その理由はあとで。

知るべき知識もスキルも無限です。そのすべてを身につけることはどんな天才にとっても不可能。そこでいろいろと考え取捨選択してまとめたのが学習指導要領ですが、これも放っておくとどんどんふくれあがってしまい、小学校でも英語教育だとかプログラミング学習だとかあまり本質的とも思われないものが詰め込まれてきます。

多くの子どもたちが、学習内容の積み残しをしたまま次の学年に進み、さらに積み残しが増幅していきます。すると何が起こるか。当然ながら、勉強が嫌いになります。日本では、学校の勉強が好きと答える比率が先進国の中でもダントツに低いのです。置き去りにされて楽しいはずはありません。置き去りにされたくないので、塾へ行ったり、たくさん宿題こなしたり。親が必死にけしかけたり、それでわかるようになればまだしも幸せですが、そう簡単について行けない子どもたちはなんとか表面だけ取り繕おうとして学習の中身ではなく効率的に結果だけ(つまりテストの点や成績だけ)追い求めようとするようになります。

私は長く公立高校の教員を続けましたが、多くの生徒がだいたい小学校四年生くらいで勉強が嫌いになっているという実感を持ちました。もちろん、高校で勉強の楽しさに気がついたり大学に入ってからああこれが本当の学びなんだと気がつく子もたくさんいますが、勉強が好きではないまま進学して勉強が嫌いなまま大人になってしまう人がどれだけ多いか。効率よく点数を稼いで、できるだけ楽に合格さえできればそれでいいとか思いながら。

大事なことは、たくさん詰め込むことではなくて、学ぶことへのモチベーションを伸ばし、知らないことに対する「学び方を学ぶ」ことだと思います。

好奇心とモチベーションで楽しく学んだ子は勉強が嫌いになりません。するとこういうことが起こります。例えば小中学校でまおいのように体験を中心にして好きなことを思う存分学んだ子は、ある分野に熱中しすぎて別のある教科のある単元を学び損ねてしまったとしましょう。その彼が普通の高校に進んだとき、優秀な生徒たちなら教科書ですでにマスターしていることが彼には初めて目にする知識かもしれません。彼は一瞬慌てるでしょうが、すぐに自分がどうすればいいのかわかります。だってこれまでもずっと主体的に学んできたので、誰に言われなくてもわからないことをわかろうとし始めます。それが可能なのは彼がすでに学び方を身につけているからです。
一方、小中学校とずっと成績が良くていわゆる勉強のよくできるA君がいたとしましょう。彼も高校で新しいことを学びはじめると、苦手でうまくいかない分野だって出てくるはずです。もしA君がこれまで先生のいうことを全部こなしてきて、数値評価の価値観で育ってきたなら、成績が下がるとか、希望の大学には入れないからという理由がきっと学びのモチベーションになることでしょう。しかも受動的な学びが中心だったなら、自ら学び方を知らないので誰かに頼るしかありません。

A君が外発的なモチベーションによる学びだとすれば、逆に数値で序列化されたことがないまおいの子どもたちは、主体的で内発的なモチベーションが原動力となる学びを身につけています。仮に結果としてどちらも同じ理解レベルに達することができたとして、この二人にはどんな将来が待っているでしょう。人生の楽しみとか生涯学習といった観点から想像してみて欲しいのです。あるいは、どちらがイノベーションにつながる創造性を発揮してくれるでしょうか。わからないことがあるから知りたくなるという前向きさと、困るからとかかっこ悪いからとか外部の評価によるやらされ感のどちらが人生の幸せにプラスになるでしょうか。

どんなに子ども時代に優秀な成績を上げたとして、一度も挫折することなく人生を全うするわけではありません。一見優秀に見える子には挫折したりわからないことが出てきたときどう対処して良いかわからないことが往々にして起こります。簡単に絶望したり、ただそこから逃げ出すこともあります。自己学習力が身についていないのでレジリエンスが備わっていないのです。先に成功した学びにつながらないといったのはそういう意味です。

そもそも、同じ内容を同じ分量、同じ期間ですべての子どもに教えようとするからこういうことが起こるのだと思います。それをまるで教育の平等と勘違いしてしまっている人が教育業界の中にさえいます。 そういう一斉指導がある意味社会の要請として必要かつ適していた時代も確かにあったでしょう。しかしこの多様化の時代にはあまりにも的外れだと思いませんか。ましてやAIが広く世界に行き渡る時代を生きることになる今の子どもたちにふさわしいことなのでしょうか。

もうひとつ、学校で競争を経験しなければ競争社会では生き残れないというような言説も実は大人の都合が優先したもっともらしい詭弁に過ぎないと私は思っています。競争して学ぶことと社会での競争に勝つこととの因果関係も果たして本当にあるのでしょうか?人を蹴落とす経験よりも協働して学ぶ経験の方がどれほど現代社会で必要とされるか、どちらが大切か。そしてもし、一見勝ち組的で優秀にみえる人ほど折れやすく孤立しやすいのだとしたら・・・ 。競争しなければ人は勉強しないとか進歩が生まれないとか考えるのはずいぶんと人間を見下した考えのようにも思います。

そもそも人はなんのために学ぶのでしょうか。成功した学びとは何なのでしょうか。
それは社会をよくすることにほんのすこし貢献できたり、自分や家族の人生をほんの少し豊かにするためにすることではないかと私は考えます。

最後に、私が好きなエマソンという人の詩があって、50歳を前にして大学院で提出したキャリア教育の論文の末尾にも引用したのですが、再掲してみます。(訳がこなれていないのはご容赦ください)勉強のことだけでなく、人生をトータルで考えるこういう視点も大切ではないかと思います。

SUCCESS         By Ralph Waldo Emerson

To laugh often and much;
To win the respect of intelligent people and the affection of children;
To earn the appreciation of honest critics and endure the betrayal of false friends;
To appreciate beauty, to find the best in others;
To leave the world a bit better, whether by a healthy child, a garden patch or a
redeemed social condition;
To know even one life has breathed easier because you have lived.
This is to have succeeded.

いつも、たくさん笑うこと。
知性あふれる人々からの敬意と子どもたちからの敬愛を得ること。
率直に批判してくれる人たちの評価を受け入れ、
不誠実な友人たちの裏切りに耐えること。
美しいものの良さがわかること、
他人の中の一番善いところに目を向けること。
健康な子ども、小さな庭、それから、社会的な状況の改善、
これらのうちのどれかひとつだけでも後に残すことで、
この世界をほんの少しでも住みよいところにすること。
自分がいたことで幸せな人生が送れたという人が
たった一人でもいたことを知ること。
成功したとは、そういうことである。

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北海道長沼町に、2023年4月の開校を目指す私立小学校「まおい学びのさと小学校(仮)」のnoteです。