「理知」と「遊び」、または「知ること」と「信じる」ことについて
昨年までわたしは、「知る」ことが人生を愛する最善の方法だと考えてきた。目前にあらわれる現象に対してその本質を探り、それを自分の論理に再配置することで世界を拓いてきた。この極端に客観的な態度は、わたしの内側に起きていた名前をもたないエネルギーの体系化を助け、自分がこの世界のどこにいるのかをあきらかにしてくれた。しかし同時に、言語による分析と再構成を繰りかえすようになった理知の信奉者は、思考に先んじて生じるはずのなにかを見失っていた。それは「知る」こととは性質がまた異なる世界と