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不思議夜話 23

宴会場からふらり廊下へ出た。
もうすでに片付けが始まっているのだろう。幅三間はあろうかと思われる板敷きの廊下には、そこかしこに引き揚げられた膳や銚子が雑然と集められていた。そして廊下の左右には大広間が、それこそ数知れず並んでいる。随分大きな旅館かホテルだと思った。
随分飲み食いしたはずだと思ったが、不思議と酒に足を取られる訳でもなく、忙しく立ち働く女中連の間を平然と歩いている。はてさてこれからどうしようかと思案していると、後ろから背広にネクタイ姿のYが声を掛けてきた。
「お前、部屋に帰るのか?」
「いや…、特にどうしようとは…」
とは言ったものの、部屋を取ったという記憶がない。それにYは高校の友達で、こういった宴会で出会うのは同窓会くらいしか思いつかない。かと言って、この集まりが同窓会にしては他に見知ったメンバーが見当たらない。客らしい人影も女中の姿も、手を伸ばせば突き抜けてしまうような、何とはなしに「透明」な感じなのだ。それこそ今そこに存在している実感に乏しい。なんとも不思議な感じで思案に暮れていると、Yは私を放ったままで廊下をどんどん進んでゆく。
「おい、どこへ行くんだ」
「なぁに、庭に出てみようと思ってね」
「何かあるのかい?」
Yは顔だけ振り返ってニヤリと笑った。

突き当りに古めかしい赤い扉のエレベーターがあり、二人で階下に降りる事になった。暫くして随分広いカウンターのあるフロントらしい空間に出てきた。荷物を抱えたカップルや、カートを犬のように引き摺った家族連れなど、色とりどりの客たちが、カウンター越しに白いジャケットのホテルマンやりとりをしている。彼らの真向かいには大きなガラスのドアが幾つも並び、その向こうの車寄せにも車がひっきり無しに到着していた。いわゆるチェックインタイムなのだろう。ただ、それらの喧騒や一人ひとりの姿が、目や耳にはっきりと入ってくるのだが、なんとなく磨りガラスを通したようで、頭の中にはしっくりと収まらない。
Yはどこにと思って見回すと、丁度車寄せの端を歩いているところだった。車寄せの真ん中にはこんもりとした古墳のような築山があり、ツツジか何かの低木が植わっていたが、花の時期ではないのだろう、やや枯れた緑色の葉っぱで覆われていた。
Yは建物伝いに車寄せの外側へ歩いていく。遅れないように小走りに近づくと、車寄せの切れるところで、パッと目の前がひらけた。

半球の天空には満月と降るような星が広がり、振り返るとレンガ造りのホテル玄関がドンとそびえていた。眼下には緩やかに下っていく山腹を、幾重にも緩やかに縫って走る綴織の道路が続いていた。折り重なった道路を先程のツツジのような生け垣がサンドイッチのようにして隔てている。月光に照らされるその姿がまるで実りの棚田のように見えて美しい。
「いい夜だろう?」
いつの間にか横に立っていたYが呟いた。
「いい景色だ」
私はそちらに目を向けずに頷く。
時折車のサーチライトが夜空を切り裂くように左右に流れていった。
二人並んでその景色を眺めながら何事か会話したのだが、今となっては残念だがそれが何だったのか判然としない。随分話し込んだような気もするが、一言程度だったのかも知れない。内容も景色についてなのか、近況についてなのか、それとも二人であった過去の事だったのか…。何かしら大切なことだったに違いないのだが。

暫くしてホテルへ戻った。
何気なく上着の右ポケットを探ると、コースターのような厚紙が出てきた。大きく数字が書いてある。輪っかに仰々しい鍵が取り付けてあるところを見ると部屋番号とその鍵らしい。嫌な感じがした。こういった状況で、旅館かホテルの部屋鍵を見つけると、なかなかその部屋に辿り着けないという記憶が蘇る。過去の経験があるのかと思い返すがそれは判然としない。が、ぼんやりした記憶とその時の嫌な気分だけははっきりと迫ってくる。濃いオレンジの絨毯が廊下全体に敷き詰められた長い廊下を見ると、ため息とともにその思いが私の足をさらに重くした。
長い廊下の果てにあるエレベーターに乗り込み、最初の番号を目当てに15のボタンを押す。暫くして軽やかな音を立て扉が開いた。今度は赤黒い絨毯が延々と広がっている。こういう時に限って誰とも出くわさない。隣に立つYも能面のように表情を変えず何も言わないでついてくる。焦りが出て心臓の音が少し高くなる。赤黒い絨毯を歩いていくと、突き当りで今度は右に曲がる。少し頭がくらくらする。左右に注意して歩くが、部屋番号が一致している扉に出くわさない。今度は左へ折れる。ここにも一致する番号はない。相変わらずYは何も言わずについてきた。

どん突きで次のエレベータが見つかった。先程のエレベータと違って蔦植物の絵が一面に描いてある。今度は最初の数字を除いて5のボタンを押す。スーッと血の気が引くような感覚がした。下降するエレベータはこれがあるから嫌なのだ。音がして扉が開く。エレベータホールは老舗旅館の落ち着いた感じに似ていた。左手に中庭がガラス障子越しに見える。右手には板張りの廊下が延びていた。ふと気づくと、目の前に赤い制服を着たボーイが立っている。ホッとした。これを逃すものかと慌てて鍵札を見せて場所を聞いた。
「ああ、これでしたら、」
と言いながら彼は微笑んだ。
「昔、坂本龍馬様と陸奥宗光様がお泊りになったお部屋です。続き番号ですのでご一緒にご案内します」
くるりと向きを変えると、先に立って板張りの廊下を歩いていく。途中で4,5段の階段があり、それを下ると右に曲がった。
「坂本龍馬と陸奥宗光だってさ。道後温泉の坊っちゃんの湯みたいな話だな。俺のはどっちかな?龍馬だといいけど」
と振り返りながらYに話すと、
「有馬温泉でもそんな感じの風呂があったはずだけどな。伊藤博文が浸かった湯だとかなんだとか…。するとさしずめ俺のは陸奥かな」
と返してきた。

暫く行くと、ボーイがドアの前で止まって「こちらです」と手先を傾けた。礼を言って鍵を回して扉を開けると、十畳ほどの広さの洋室があり、カバンから服や靴が放り出されてあちこちに散らばっていた。しかし、そのカバンや洋服などに全く見に覚えがない。私のものではないのだ。鍵を間違えたか、別部屋に私の鍵がたまたま合ってしまったに違いない。見失ったら厄介なので、すぐさまボーイを呼び止めようと扉を開けたら、パッと明るい日差しが目に飛び込んできて目が覚めた。

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