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不思議夜話 21

薄暗い小さな部屋の中に佇んでいた。
右側に広がる窓には、重厚で黒光りのする鉄製の窓枠が嵌っており、ガラスも歪んでかなりレトロな感じがする。こちらは3階くらいなのか、見下ろす下に、小さな石畳の通りを挟んで町並みが僅かに広がり、地方都市に昔あったような小さな二階建てがハモニカの如くに並んでいる。それぞれの一階は、概ね二間間口くらいの木製でできたガラスの引き戸になっていた。夕暮れなのか、家々には黄色い明りが灯され、店だなに並べられた商品が歪んだガラスの向こうに行儀よく座っている。正面は和菓子店のようで、その左には傘屋の蛇の目が軒先で揺れていた。右はひな人形でも扱っているのか、小ぶりの鮮やかな人形が並べられている。総じて2~3人の客と店員が出たり入ったりしていた。それなりの賑わいなのだろうが声は聞こえない。道行く人の頭上にはガス灯がたった一灯、ぽつりと湿度のある路面を照らしている。そういえば霧雨でも降っているのだろう、わずかに凹凸のある歪んだ窓ガラスの谷間を縫うように、時折細いしずくが下りてきては窓枠の隅に消えていった。

和菓子屋と傘屋の間から薄く煙が立ち上っている。
タバコの煙のように細く白い。
和菓子屋は火を扱うので、その煙かとも思いながらぼんやり眺めていると、やがて、その煙が黒く色づき、にわかにオレンジ色の舌をちょろちょろと出し始めた。
「火事だ!」
窓に顔を寄せて思わず叫んだが、窓の向こうの人の動きは変化がない。聞こえないのだ。窓に手を掛ける。開けようと鉄製の枠を曳こうとするのだが、錆びているのかうんともすんとも動かない。もう一度、大声を出しながら窓枠をドンドンと叩いてみた。店の前で前掛けをした和菓子屋の小僧っ子がこっちを見上げた。
「火事だ、火事!」
指をさしながらの必死の形相が伝わったのか、慌てて店の奥に駆け込んでいく。大人が飛び出してきて右往左往し、バケツや赤い筒状のものを持ち出す者もいる。大騒ぎだ。そのうち消火器だろうか、白い煙が辺り一面を包んで一気に何も見えなくなってしまった。
白く濁った世界の中で様子は判らないが、あれ以上火の手が上がらないのは、手際よく消火してくれたのだろう。どうやらぼやで済んだようだ。ドキドキと未だに静まらない動悸を感じながらホッと安堵した。

やがて白煙はすこしづつ風に流されていった。周りの様子も徐々にはっきりとしてくる。
と、どうだろうか。
先ほどの通りや家並みは嘘のように掻き消え、どうやら丘の上に立つ家屋の窓辺から大きく開けた海沿いの町を遠望しているようだった。石畳も和菓子屋も、軒先の蛇の目もない。季節も時間も違うようだ。それどころか、見える街の姿は色とりどりのビーズをまき散らしたようにカラフルで、行き交う人の姿は小さすぎて判然としない。目立つビルなどもなさそうだ。明るく青い空が広がり、柔らかな陽光の中、綿菓子のような雲が一つ、二つぼっかりと浮かんでいる。鳶だか鷹だかがゆっくりと高い空に留まっていた。町の左手には、この規模の町にしては少し場違いなほど高い尖塔がただ一つ聳えている。絵画か絵葉書で見たようにも思うが判然としない。何かの宗教的な施設だろうか。いや、時計台かもしれない。真っ白ではなく特徴的な事は何もないが、とにかく高いのが印象的だ。先頭は削ったばかりの鉛筆のように鋭かった。
窓枠は木製で白く、ガラスも無いかのように透明で、左右にレースのカーテンが掛かっていた。穏やかな午後の昼下がりといった風情だ。時間が止まっている。そんな感じだ。時の神様は昼寝の真っ最中かもしれない。

窓の中央に軽く触れると、大きく外側に開いてお日様の香りが部屋に流れ込んできた。両端のカーテンがゆっくりと揺れる。
階下の小さな庭に灰色の毛だまりがポツリと置かれてある。
よく見ると、飼い犬の"しん"だ。
「し~ん!」
と呼んでみる。耳がピクリと立ったかと思うと左右を見回し顔を上げて目を見開いた。舌を出して大きく息をしている。ミニチュアシュナウザーの雄で、毎晩帰宅時の僕の足音を聞き分けては玄関まで走ってきたっけ。みかんが大好きで、特に僕が食べ始めると膝に手を掛けていつも催促した。散歩も好きで、おしゃまな雌犬が通ると興奮して追いかけようとするのが玉に瑕だった。そのたびに、
「飼い主に似るって本当よね」
と女房が横目でこちらを睨んだものだ。
一度散歩の途中でリードが切れて焦ったことがある。待てと叫ぶと立ち止まって振り返り、追いかけると逃げる。5メートルほどの距離を正確に保つ。嬉しそうに何度も何度も繰り返しては逃げて、そして立ち止まる。最後にはこちらが根負けして道端でへたり込むと、慌ててすり寄ってきた。大丈夫かとでもいうように。晩年は、目も不自由になり、首にカラーを捲いてやらないと、机の角や椅子に頭をぶつけるようになってしまった。みかんも食べなくなり、餌も一人では摂れなくなっていた。
そう、晩年は。えっ、晩年…。
そういえば、と気付いて慌てて階下を覗き込んだ。そこにはもう"しん"の姿はなく花壇に水仙が揺れているだけだった。

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