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シジンとテツガクシャ

絵本作家・エッセイスト 佐野洋子の、単行本未収録だった童話やエッセイなどを収録した『佐野洋子 とっておき作品集』が、今年の3月に筑摩書房から刊行されました。
そのなかに、「いまとか あしたとか さっきとか むかしとか」というタイトルの童話が収録されており、冒頭に、主人公の少女「ふみ子」と父親が散歩に出かけたときの会話がでてきます。

 「お父さん、風は見えないけど見えるね」
 「そうだね、ふみ子はなかなか詩人だな」
 「シジンってなに?」
 「詩を作る人だよ」
 「詩ってなに」
 お父さんは、ちょっともごもごしました。
 「うーん、まあ、何だな、見えない事をことばにする人かなあ」
 「ふーん」
 「子どもはみんな詩人だよ」 
 「なんで」
 「うーん、なんでだろうな、ふみ子はなかなか哲学者だなあ」
 「テツガクシャって、なに?」
 「うーん。なんでだろうなあって、いつも考えている人だよ」
 「お父さんもてつがくしゃ?」
 「は、は、は、お父さんは忙しくて、てつがくする閑がないよ」
 「じゃあ、ひまな人がてつがくしゃになるんだね。てつがくしゃは、お金持ちなんだね」
 「お金持ちじゃなくてもてつがくする人はいるんだ」
 「仕事もしないで?」
 「それが仕事なんだ」
 「ふみ子、ふつうの人になる。てつがくしゃになったら、びんぼうになるよ」
 「うーん」
 お父さんはだまってしまいました。
    (佐野洋子「いまとか あしたとか さっきとか むかしとか」)


このやりとりに、わたしはどうしてもニヤニヤしてしまうのです。(この「いまとか あしたとか さっきとか むかしとか」は「童話」ではありますが、おとなが読んで「うーん」と唸ってしまう一篇です。)
というのは、そういう読みかたは邪道だとはわかっているのですが、ここに登場する「シジン」と「テツガクシャ」に、佐野さんのパートナーであった詩人の谷川俊太郎さんと、その父である哲学者の谷川徹三をイメージしてしまうからです。

佐野さんは別の文章で、谷川徹三のことを以下のように書いています。

徹三氏は一生学問だけをされた方なので、俗世間のことに一際無縁に生きていらっしゃいますので、私のことなど、お目にもとまらないようで、そのへんの猫と同じようにしか感じておられないようです。(中略)元日まではお一人で地下鉄に乗って銀座までおでかけになっていましたが、あたりの人々がはっと立ち止まるほど美しい気配がただよい、自然にうやうやしい気持ちにさせられて、おまけに実に粋な着こなしと動作がエレガントで、知性が、マリリン・モンローの色気のように発散致します。多分日本で一番美しい人間だと私は感心しておりました。
        (佐野洋子『親愛なるミスタ崔 隣の国の友への手紙』)


「日本で一番美しい人間」! そのような方にとって、息子の同居人は「そのへんの猫」と同じみたい、というのは、まさにスパイスがガツンと効いた佐野洋子節ですが、この老齢の大哲学者がまとう尋常ならざるたたずまいの描写はなんとも秀逸です。

いっぽう谷川俊太郎さんには、父を題材にした「アンパン」という詩があります。

ぼくの父はアンパンを軽蔑していたが
フォワグラは尊敬していた
そして生涯ニンニクを愛した
母のことも愛していたと思うが                          

母は父を意地がきたないと言っていた
戦争中息子のぼくにも内緒で
ひとりで乾燥イモを食べたという理由で
離婚を決意したこともあったそうだ                                                        

(中略)

九十一歳のときバルセロナへ行った
ガウディを口をきわめて罵った
イベリア航空のことは褒めた
昼食にキャビアが出たからだ                     

死んでから勲章をもらった
法をおかしてサンショウウオを食ったことを
誰も密告しなかったらしい
ちなみに父は哲学者だった
ぼくは今アンパンを片手にこれを書いている
                     (谷川俊太郎「アンパン」)


詩人の息子が詩にした、哲学者である父。
この詩を読むと、どうしても佐野洋子さんが描出した大哲学者のすがたと照らしあわせてしまいます。
そこから、冒頭に引用したふみ子とお父さんの会話をふたたびたどってみると、ニヤニヤしてしまう。
(いちおうお断りしておきますが、ニヤニヤというのは、悪い態度をとっているつもりではありません。)

わたしは谷川徹三という学者の著作や人物について何も知りません。
けれど、佐野洋子の文章と谷川俊太郎の詩からは、学問に生涯をささげた求道者のような一面と、それとは真逆の、「えっ?」と思うような俗っぽさが共存する人物像というのか、なんともいえない人間の味わいが、どどどっと伝わってきます。
おもしろいなあ、と頬がゆるみます。文学の醍醐味をあじわったような気分になって、どうしてもニヤニヤしてしまうのです。