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お誕生日のアニサキス


突然ですが、私のお誕生日は平成7年の1月17日です。
阪神淡路大震災のその日その時に生まれました。

これを言うと、大体一発で覚えて頂けます。が、人付き合いの悪い私はあまりお誕生日を祝われた経験が御座いません。哀しみ。

けれども徐々に他者を大切にすることも覚え、それに伴ってかお誕生日の折に祝福の言を頂けることが増えて参りました。

これは「やったぜ」ってなもんで、調子に乗ってお誕生日の前後に人に会う機会を増やしてみたりしました。

もちろん、あわよくば祝って貰う為です。

その企みは成功し、見事に幾つかのプレゼントを頂いたりもしました。
その中の一つに深く考えさせられることがありましたので、此度はそれを紹介したいと思います。

アニサキス

「お祝いに食べさせて貰った料理にアニサキスが入っていた」とかそういう話ではなく、もっと単純に、そのままの意味で受け取って頂いて結構です。

いまいち意味が分からないという方の為に具体的な説明をするならば…

「お誕生日おめでとう」の言葉と共に、緑色の袋と黄色のリボンでラッピングされた、活きの良いアニサキスを貰った。

補足しておきますと、「アニサキス」とは「回虫目アニサキス科アニサキス属に属する線虫」のアニサキスです。
生魚に紛れ込んで、食べちゃうと中々に厄介なアイツです。

お誕生日プレゼントという生物にとっては結構な祝福行事の贈り物として、選ばれたのがアニサキスでした。

その時の私の顔、こんなんです。

(๏.๏)

頭に「?」しか浮かばないとはこのことか、と初めて実感しました。
プレゼントを貰ったという「喜」の感情と品物の意味不明さが私の中で大混乱、だってそもそも見ただけじゃアニサキスって分からないもの。

「なにこれ、モヤシ?」ですよ。

「アニサキスだよ!」と教えられても、まだ謎は解けません。
だって、お誕生日にアニサキスを貰う意味が全く分からないもの。

そこから一旦のヘイトタイムです。

え…なんなのこの人…
もう連絡取るのやめようかな…

そんな葛藤が有りながらも「アニサキスに罪は無い」という考えから捨てることはせず、むしろ調べていくうちに「勝手に食べられては嫌われ殺される…なんて可哀想なアニサキス」なんて同情心すら芽生えて来ました。まるでリマ症候群。

そこからはもう、デレッデレです。
日比谷公園で太陽光に照らされるアニサキスの写真を撮ってみたり、渋谷ハチ公前でアニサキスを眺めながらスコーンを食べてみたり、まるで恋人かのように行動を共にし愛でてやりました。

可愛い可愛い私のアニー。

そうすると不思議なもので、目に見える景色がアニサキス前とは変わって来たのです。

寄生虫や微生物グッズがやたらと目に付いたり、蟲師の宙に浮くふわふわがやたらと愛おしく感じたり、目黒の寄生虫博物館へ行ってみたくなったり。

「人間の適応力ってすげーな」と感動しました。

私は人間の中でも結構意志の強い方だと自負していたのですが、これを見るにそうでも無かったようです。

というのも、結局は誰かの影響下に生きているのだろうと。
自分で決めたつもりでも、選択肢を用意した誰かが居て、これまたその選択を促した誰かが在る。

結局は「大きな力の下で生かされているだけの私か」と、己の小ささを考えさせられました。

だって、こんなに「アニサキス」を連呼するnoteを書くことがあるだなんて想像すらしなかったもの。

世界は未知で溢れている。

そこに気付くと、私の中には二つの感情が芽生えてくる。

『期待』と『恐怖』だ。

人間は変化を好まない。

だから、叶うことなら現状維持を続けたい。
仕事とか行かず、日がな一日蜂蜜とか舐めながら眠るプーさんみたいな生活を送りたい。

けれど、現実に置いて「変化しない」ことにも「変化をしない為の努力」が必要である。
何故ならば、世界は「変化するもの」だから。

その大きな力による変化というのは動く歩道みたいなもので、私達を勝手に色んな場所へ連れて行ってくれる。
己にとって居心地の良い場所だったり、嫌な場所だったり、それは様々だ。

これに対して私たちが出来るのは、連れられた場所を受け入れて楽しむか、目を塞いで変化から逃げるか、心地良い場所を離れたく無いとランニングマシーンよろしく逆走を続けるか。

圧倒的に楽なのは「受け入れて楽しむ」こと。

けれど、これが中々出来ない。

何故か、「こわい」から。

先になにが起こるか分からない。
アニサキス貰ったってどうしたら良いかわかんないもん、捨てちゃったほうが楽だよ。

わかんないことは避けて、「安全」って思ってる場所に留まってた方が楽だと思っちゃうんです。
それでも「貰った事実」は変わらないように、少しずつ変化はしてるんだけどね。

人は「安心」が欲しいんです。

「何処に行っても大丈夫だよ」って、大きな力に運ばれると同時に、大きな力に守られていたいのです。

だから、人間は宗教を作りました。

「阿弥陀さまが必ず救って下さいます」

そうすれば、未知の世界に対する「恐怖」に震えるよりも「期待」に胸を躍らせることが出来る。

その説得力を持たせる為、「仏」や「極楽浄土」とかファンタジー的な設定を事細かに記されただけのこと。
そこは別になんだって良かったんです。
安心感を持てるなら「このTシャツ着とけば俺ムテキ」だって良いんです。

だけど、私達は「誰かの影響下」に生きていると申した通り、一人で生きているわけじゃありません。
たとえオキニのTシャツで無敵モードになれたとしても、同じ環境に生きて恐怖している人に出遇うと、その恐怖って影響しちゃうんです。
こちらの無敵モードが相手へ影響することもあるかも知れませんが、Tシャツとか形あるものではその限界もあるんです。
だって、それが無いと無敵じゃないもん。

だから、「仏さま」という形無いけど人の心には確かに在る、そんな存在が必要だったんです。
でも、現代でそれは『確か』じゃなくなってしまった。
きっと、形が変わって来ているのです。

先日、六本木の森美術館でAI美空ひばりさんを拝見しました。
私はひばりさんにお会いしたことはありません。生前の活躍も、ほぼ知りません。たまーにTVで映像をチラリと見る程度です。
だから、私にとって彼女が確かに存在したという証拠は無いのです。

けれども、その存在を疑ったことはありません。
何故なら、皆んながその存在を「当たり前」に捉えていたから。
なので、生前のひばりさんを知らない私でもAI美空ひばりさんを拝見したら「ひばりさんってこんな感じだったんだ」と、何の抵抗もなく受け入れてしまいました。
その歌唱には感動すら覚え、「ずっと見ていましたよ」という台詞には涙ぐみそうにもなりました。

この感覚って、きっと先人方の仏に対する想いに近かったりするのだと思います。
釈尊当時の方々とは話したことないんで、ちょっとわかんないんですけど。

きっと、形としての「仏さま」像は薄れて来たけど、概念としての「仏さま」はまだまだ現役なのでしょう。

情報に溢れ、未知を悪しとしてしまうこの世の中ですが、本当の意味で知っている事柄なんて極僅かです。

アニサキスだって、知識としては知っていたけれど接したのはこれが初めてです。
「怖いもの」「害虫」なんて、そんな風にしか捉えていなかったけれど、体内にさえ入れなければなんら害はありません。
私にとっては、むしろ「友人に貰った大切な存在」「寵愛の対象」です。

人間なんて、そんなもの。

何も知らないんだから、知った振りをして縮こまらずに、手を伸ばして変化を楽しみましょう。
そりゃまあ色々あると思うけど、最後はふかふかのお布団が待っているから大丈夫。
むしろ、クタクタになるまで遊び呆けた方が気持ち良いかもよ。

って、思うからそう生きる。

でもやっぱり、怖いものは怖い。お化け屋敷とか。
「仏さま」じゃあどうにもならないことも現実には多々ある。


そんな時は、皆さんが力を貸して下さい。

アニサキスを食べちゃっても、お医者さんが力を貸してくれたら私は生きられる。

目に見える問題は他者に頼ろう。

己とは違う誰かが共に生きてくれていることが、もしかしたら一番の安心なのかも知れない。

なんて、ね。



ありがとう、だいすき。