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韓国ドラマ 雑感

韓国ドラマを観る楽しみのひとつに、自分自身との文化や価値観の違いを感じることがある。私の『普通』は、万人にとっての『普通』ではないということを感じる。そこに気づく新鮮さというのか…。


・『黄金』という言葉が特別に好き。

例えば、先日まで観ていた、『黄金の庭』。

『黄金の庭』、原題は『黄金庭園』?
ファングムジョンウォンと読むのかな?
黄金の庭と呼ばれる庭園がある。劇中の台詞にも、「もし黄金の雨が降っても…」という言葉がでてきた。「もし黄金の雨が降ったとしてもあなたという人は決して満足しない」というような台詞だったかな。
『ゴールド社』との業務提携が、社運をかけての大事業としてストーリーに関わってくる。


韓国ドラマ、題名だけみても、『黄金の林檎』『黄金の虹』『黄金の魚』『黄金の私の人生』『黄金の仮面』『黄金の帝国』…。

韓国ドラマ 黄金 で検索して、これだけ見つけた。原題もそうなのか、日本語訳のときにそう訳されたのかは知らない。
でも、日本のドラマで題名に黄金を使ったのは大河ドラマの『黄金の日々』しか思い出せない。日本だとあんまり一般的ではないような気がする。

『黄金の私の人生』と、『黄金の虹』も見たことがある。
『黄金の虹』の主人公のほんとうの家は、黄金水産という会社を経営する財閥だった。
財産として、貴重品として、だけではないな。至上の価値、最高の美、欠けるもののない完全なものの象徴?

小学生の頃だけど、「金(色)と銀(色)(のアクセサリー)、どっちが好き?」という話になったことがある。
「え〜金?金より銀が好き」「わたし銀が好き」「わたしも」という反応だった。もちろん、コンクールの金賞と銀賞では金賞がいい。そこは一致していた。「2番じゃだめなんです」よ、蓮舫さん。努力する際に最初から2番を目指すようでは12番しかとれなかったりするものだろう。
美意識として。
豊臣秀吉の、栄華を極めた金の茶室。
金で埋め尽くされた茶室、それよりも、利休の侘び寂びに惹かれる。
金閣のまばゆさ美しさに驚嘆するけれども、銀閣(銀色ではないが)の落ち着いた佇まいを好ましく思う。
そんな感じ。
あからさまに全面キンキラキンだと引く。
東洋人の黄みを帯びた肌には黄金の方が馴染むのかもしれないけど、財産としてなら金でも、アクセサリーには派手な黄金よりも銀やプラチナの方が好き、黄金ならさり気なく控えめに使いたい感じ。
だけど韓国ドラマの、『黄金』という比喩の多用には、黄金の華やかさ美しさをまっすぐに受け止めて
「まあ素敵ね!私、これが好き!」
「最高の価値あるものにしたい大切なものだから、『黄金』と名付けるわ」
と、はっきり言う素直さを感じた。
取り繕わない向上心の高さ。
そこ、大切かも。
「勉強?してないよ」
と言って遊んでみせて、隠れて勉強してて、そこそこいい成績をとってもたいして喜ばず、良くなくても笑い飛ばす様子を見せるのと、
なりふり構わない頑張りを見せて、成績が良くなれば喜んで、期待した成績でなければ正直に悔しがるのの違いにも通じるような気がする。なんとなく。
以前私の父が、技能実習生のお世話をしていたときがある。
「韓国からの技能実習生は、ものすごく努力する。ものすごく勉強する。それをみていて、日本はかなわなくなると感じた。ただし、彼らは、自分の努力はするが技能実習生同士の間でその努力の成果を分け合おうとはしない(教え合わない・助け合わない)のも印象的だった。彼らが協力し始めたらそのときは日本人が今のままの努力しかしないなら負けると思った」。
それは平成の一桁の頃の話だ。

・『仲間うち』と認識した相手のことは特別扱いで何が何でも庇う。自分と親しい、自分にとって大切な存在の順番に尊重する。その判断理由が、個人的な好悪というよりも一緒にいた時間とか同郷とか血のつながりが濃いとかの順番のように感じられる。

『マイディアミスター 私のおじさん』の後渓、『夫婦の世界』のコサンにみられる閉じた地域コミュニティ。

ジアンは、ドンフンの部下として後渓の街のドンフンと親しい人に受け入れられ、大切に守られるようになる。
ユニは、ドンフンの妻として尊重されているけれど、後渓の同級生の仲間ではない。ドンフンに電話をすると「家族(老母と兄弟)で食事している」と言われて「そこに私はいないのに」とひとり孤独をかみしめてしまう。
ドンフンの老母は次男の妻のユニよりも長男の妻のエリョンが好きだと息子達に吐露する。「(弁護士で収入もあるユニに)息子が引け目を感じるから」というのが理由。

コサン市のソヌの友達は、テオの浮気を知っていて、協力してソヌを騙す。
ソヌは、ヨソから来たヨソ者らしい。
コサン市の権力者ヨ会長夫妻は娘ダギョンの味方になりテオの援助をしている。
いや、アンタの娘のやってることって…。
テオって…。
それに、実はテオ、あらたな結婚生活での家庭内の立場は…。
テオの母親は、ソヌの世話で療養しながらソヌをののしる。アンタみたいな妻だから息子は息苦しいの!と。息子、やってることはヒモなんですけど。

なにかで読んだことがある。韓国の夫婦別姓は、女性の尊重とは正反対の理由だと。女性は、結婚してもヨソの者で、そのイエの仲間ではないからだと。

『黄金の虹』で、実父(権力者)の悪事を知った検事の息子が立件しようとするとそれを知った息子の上司が邪魔をし、「それでも庇うのが息子というものだろう」と非難する。

仲間うちではこれほどにあたたかい居心地の良い環境はないだろうが、ヨソ者には理不尽につらい環境だろう。どれほど努力しても、かなわない理由が地縁血縁。
理屈ではなく疎外され、正当と思えない理由で拒否される。

かと思うと、どう考えても毒親だろうって存在でも、親だと知れた瞬間から免罪されるような場面にもわりとよく出会うことがあって(『まぶしくて』では例外的にジュナの呑んだくれの父親が拒否されていた)、悩む主人公がかわいそうになる。
理屈ではない感情の動きなのか、伝統的価値観なのか。 

奥深いものを感じる。

俳優さん達がまた、演技の上手さが半端ではなくて、表情やしぐさ、間のとり方のひとつひとつがすごいので、見ごたえがあるだけに考えてしまう。

映画やドラマが国策としてバックアップされていることの力のすごさにも、考えさせられている。







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