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自他境界線

最近すごく言われるようになってきた自他境界線。

こういう考え方がメジャーになり、常識になっていくことは大歓迎です。

たとえばとても苦しい立場に置かれてる他人の相談を受けるとき、その人の状況を可能な限り想像し、共感する力がとても必要だけど、実際解決するのは本人の力以外に無いです。

エネルギーとはもらうものではなく、出すもの。

そういう意味では、みんな誰かのお手本です。

あの人から勇気をもらう、という言い方は本当は正確ではなくて、あの人の勇気ある生き方をお手本にしよう、と思えた自分の心に勇気がもともとあって、それまで小さくなっていたその勇気が、たまたま他人の勇気ある行動を目撃したときに共鳴増幅した結果、やる気が出たと感じられてるだけなんです、だから自分の力なのです。

逆に自分には理解できないような極悪な生き方してる人に対しては、ああいう生き方はしない、と反面教師にするだけです。

相手を理解して共感することと、自分がそこから何を取捨選択するかは全部自分が考えて決めること。

だから共感とか同情とかしても、それはあくまで相手の課題であって自分の課題じゃない、と常にわかってないと、あっというまに依存関係になります。

溺れるものはワラをもつかむ、ということわざ通り、苦しみの最中にいる方は、なんとかして救われたいと思うから余計に自分と相手の境界線を越えようとします。

つまり、わたしの苦しみをあなたがなんとかしてよ、という気持ちです、誰だって追い詰められたときにはそう思ってしまう瞬間があります、でもそこでぐっとこらえて、これはわたしが人生で避けられない課題なんだ、だから自分でなんとかするしかないんだ、と思うことができれば、それが理性です。

理性はすべてを中和する力があるので、混乱した意識がゼロに戻ったところで、適切な思考に入ることができます。

そうすると、闇雲に、手当たり次第に誰かに救いを求める姿勢から、この問題を自分で解決したい、そのための智恵を探そう、という姿勢に変わります。

まずは自力でなんとかしようとするその姿勢に、他者は惹かれるものです。そしてはじめてサポートが向こうからきます。

ずっと前に、ある人の相談に乗っていて、自分はとても苦しくて辛いから毎日話し相手になってほしい、家に来てほしい、と言われたことがあって、そんなの絶対嫌だなと思って普通に断ったことがありました。

するとその人は、家に来てくれないなら自殺する、と言ってきたのでした。

ところでわたしは10代の頃から、なぜか他人から「相手をしてくれないなら死ぬ」と言われることがたまにありました。

そしてわたしの性格的なものなのか、そんなことを言われると一気に気持ちがさめて「こんな大迷惑をわたしにかけてくるような人間が自発的に消えてくれるとはありがたいな」と思うタイプなのです。

だから自殺するぞと言われても、どうぞどうぞと返します、一切止めないです。

どうせ本気で死ぬ気なんてないんですよ。

そうやって気を引きたい、わたしの罪悪感を刺激してコントロールしたいだけなのがあきらかです。

なんでそんなことが10代の頃からわかったのかというと、わたし自身が本気で死のうとしたことがあるのですが、止めてもらおうなんて思わなかったんですよね、完全に自分の問題と思ってたからです、だから他人に止めてもらおうとしてる時点で「甘いな」と思っちゃって、当時はそれで気持ちが冷めました。

それに自殺云々よりも、自殺という人生の一大事に対しての姿勢すらその程度なのか、だからお前はだめなんだよ、という軽蔑です。

ちなみにわたしのこの突き放した言動によって本当にその人が自殺したとしても、まったく何も感じないです。

やったほんとにいなくなった、ラッキー!!と思います、誇張じゃなくそういう性格なのです、わたしはこういう依存的なヤバい奴が大嫌いなので、勝手に消えてくれるなんて最高だ、と晴れ晴れするだけです。

自他境界線てそういうものです。

そいつが死のうが生きようが、わたしの問題じゃない。

だって自殺ってめっちゃ決心がいるんですよ、超自発的な行為なんですよ、逆のこと言えば他人からどんなに死ねと言われても本人にその気がまったくなかったら絶対自分から死なないですからね。

生きてるんじゃない、生かされてる。

自分は生命そのものなのに、自分から生命に逆行する行為なわけです。

だからわたしはどんなに辛くても「あのとき死ななくてマジでよかった」と真剣に思っています。

人生は、どうにかして改良できる、そう信じる、だって自分は生命なんだから、無限なんです。

何かできることがあるはずだ、と自分の周りを見回す、ここは直したほうがいいと思ったところからとにかく取りかかる、自力で難しいと思ったら賢い他者の智恵を借りに行く、そして自分なりに試行錯誤する。

自殺を考えるほど辛すぎる環境なら変えるしかない。

死ぬ前になんだってできます、絶対できる。

絶対できるとわたしは考えますが、できないと考える人もいるし、それこそが自他境界線なんです、できないと思う人はできないし、それをわたしができるようにしてさしあげる義理は無いわけです。

うちのひいおばあちゃんは明治の人間ですが、嫁いだ先とそりがあわず、1週間で逃げ出してきました。

現代よりはるかに人権意識に乏しい、100年前の話しです。

女にとって自由な生き方の選択なんてない厳格な家父長制度の社会でも、こんなところにいるのは嫌だと後先考えずに飛び出して、あとはどうにかなって、80過ぎまで生きました。

ルール無用だろうが、やれることはある、とりあえずやる、自分らしい生き方のためにやってみる。

わたし自身、たしかにいま幸せだけど、そういう意味では、今もやってることは死にたいと思ってたときと同じです。

自分と自分の周りを見渡して、何か工夫できることないかな、これやってみようかな、小さいことでもそのくりかえしです。

良い他人を大いにお手本にすることはあるけど、その人に自分のところにきてもらってやってもらおうとはまったく思わないです。

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自分でやってみよう、と思う瞬間の胸の高まり、これが生命の力だと思っています。

とにかく他人にそばにいてほしい、やってもらいたい、自分をわかってほしいと切望するのは、幼少期に親にかまってもらえなかった、甘えられなかったことへの代償行為だと心理学の本に書いてありました。

それならそれで、そういう幼い自分の心をしっかり認めたほうがいいです。

わたしは幼稚なんだ、わたしは愛情に飢えているんだ、とはっきり気がついたほうがいいです。

それこそが理性、そして工夫はそこから始まるからです。

他者に期待して依存すること=自他境界線がないことだから、じゃあ他人に迷惑をかけないで、自分のこの空虚な心を自力で埋めるためにどうしたらいいだろう?と真剣に考えるとき、サイクルが変わります。

あとはなんか、だいたい勝手に良くなります。

親と自分を切り離し、他人と自分を切り離し、孤独と向き合い、少しずつでも一人で何かやっていく、他人の評価ではなく自分がどう感じてるかを探る。

それをきちんとやれば、じょじょに大人になっていけます。

まともな大人になれた頃、自然と友達ができたりします。

自分育てに時間をかけることをサボってはダメです。

10年くらいかけて、改善していけばいい。

他人を使って手っ取り早く解決しようとすると、ますます嫌われて絶望に襲われるだけです。

これを読んでも「自分にはできない」と思うならそれはその人の問題で、わたしの問題じゃない。

自転車の乗り方は教えてあげられるけど、自転車に乗れるようになれるかはそいつの練習次第であり、そいつが自転車に乗れないからといってそいつを毎日うしろに乗せてわたしが自転車こいであげる必要はないわけです。

まあその場に死ぬまで立ち止まってるのもよし、自転車あきらめて歩くのもよし、あえてのスケボー移動にチャレンジでもよし、人生とはすべて本人次第です。

自他境界線、こういう考え方こそ、学校の道徳の時間にやればいいのになって思います。

#日記 #エッセイ #生き方 #人生 #哲学 #自他境界線

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