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一般教養対策② 法とは何か


1. 法の支配

(1)法の支配と法治主義

 ①法の支配

 M・ウェーバーによれば、法の支配とは、権力(支配)の正当性を「法」と「法に対する国民の信頼」で拘束することで、もって国民の権利や自由を保障することを意味する。

 法の支配の特徴は、Ⅰ:憲法の最高法規性、Ⅱ:人権の保障、Ⅲ:適正手続の保障、Ⅳ:裁判所の独立・強化と違憲審査権の保障、にある。

 現在の日本では、法の支配を採用している。たとえば、憲法の最高法規性は日本国憲法98条1項に定められている。また、人権の保障は同法3章に規定され、適正手続の保障は31条に規定されている。そして、裁判所については、76条1項及び81条に規定されているところである。


 ②法治主義との相違

 法治主義は、国家権力を法で拘束することによって、国民の権利や自由を保障するという点で法の支配と類似する。

 一方で、法治主義においては、権力を拘束する法に国民の信頼は要求されていない。すなわち、正義に反する法であっても、法としての機能を果たすのである。

 例えば、近代市民革命後のヨーロッパでは、自由主義経済が確立すると同時に、自由主義経済を阻害する権力を拘束すべき、という考えが広まっていた。すなわち、議会の立法により権力を拘束し、それによって自由な社会を作り上げていくべき、と考えられていたのである。

 しかし、こうした法律は単に議会を経て制定されればよく、その内容の合理性までは要求されていなかった。そのため、議会の多数派が権力を濫用し、少数派を迫害する法律を制定することがあった(形式的法治主義)。


(2)法とは何か

 では、どのような法が国民の信頼を得ることのできる法であるか。
 M・ウェーバーは、まず、実質的・形式的法及び合理的・非合理的法という区分を用いた。

 ・実質的/形式的法

 これは、法の自立性・自己完結性の高さを意味する。

 実質的法とは、法の意味や価値、原理を法の外部の領域(倫理や宗教、イデオロギーなど)から調達する法を意味する。一方で、形式的法とは、法としての自立性・自己完結性が高く、意味や価値、原理をその内部で完結させる法を意味する。

 ・合理的/非合理的法

 これは、結果の事前の予測可能性の有無を意味する。

 合理的法とは、予測可能性、普遍性、公平性を持つ法である。一方で、非合理的法とは、予測可能性がなく、個別性、不公平性を持つ法である。

 これらの組み合わせとして、次の4類型が出来上がる。


 ①形式的かつ非合理的法

 盟神探湯などの神意裁判がこれに当たる。盟神探湯は、熱湯に手を入れ、火傷をしなければ、正しい人間と観念される儀式である。

 これは、厳格な形式的手続によって支配され、人間の判断が介入せず、神の判断に委ねる点で形式的であり、結果が予測不可能、その場限りの個別性を有するといった点で非合理的である。


 ②実質的かつ非合理的法

 大岡裁きの子供裁判がこれに当たる。

 大岡越前の元へ、ある子供の親権を主張する2人の母親が来た。それに対して、大岡越前は、子供の腕をそれぞれが一本ずつ持ち、それを引っ張り合い、勝った方が母親である、と考えた。それに従って、2人は引っ張り合うが、子供が痛いと叫び、片方は手を離してしまった。手を離さなかった方は、子供を嬉々として連れて行こうとしたが、大岡越前は、離した方が本当の母親だとした。なぜなら、本当の親なら子供が痛いと叫んでいれば、手を離すはずだからである。

 これは、倫理や感情が決定のための基準とされている点で実質的であり、判断を下す者が定まった枠に縛られずに直接事案を評価している点で予測不可能であるから、非合理的である。


 ③形式的かつ合理的法

 近代法がこれに当たる。実体的にも手続的にも一義的で一般的な要件が尊重される点で形式的であり、厳格に定義された言葉を解釈し、法的判断もこれを基準にするという点で予測可能性が高く、合理的である。


 ④実質的かつ合理的法

 ガリレオを裁いた宗教裁判がこれに当たる。ガリレオは、キリスト教的世界観である天動説に反して、地動説を唱えた。その結果、キリスト教の教義による宗教裁判にかけられた。

 これは、宗教の教えが優越している点で実質的であり、公知の宗教原理に依拠している点で予測可能性が高く、合理的である。

 これら分類のうち、ウェーバーは、こそが統治に相応しい法であると考えた。

 まず、実質的法は、感情や宗教、倫理などの価値観に依拠することから、法として不安定になりやすい。すなわち、自由主義国家においては、価値観が多様であり、上記のような価値観に依拠すれば、特定の者が抑圧される社会となりかねない。殊に、日本国憲法では、思想・良心の自由や信教の自由が広く保障され、価値観が多様であることを前提としている(価値相対主義)。そして、国家権力は、原則としてこれを侵すことができない。したがって、感情や宗教、倫理などの価値観に依拠することは許されていない。

 また、非合理的法は、結果の予測可能性や一般性、普遍性が無いことから、人々の社会・経済活動を萎縮させかねない。すなわち、同じような事案に、異なる結論ばかりが出されると、人々に自身の行動が処罰の対象になると感じさせてしまい、行動をしなくなってしまうのである。したがって、法には予測可能性が必要であり、合理的でなければならない。


2. モラリズム

(1)モラリズムの意義

 モラリズムとは、社会の道徳に反する行為は犯罪化が正当化されるという考え方である。

 パターナリズムが本人の利益に反する行為を制限するのに対して、モラリズムは、社会道徳に反する行為を制限するものである。

 パターナリズムの発想においては、覚せい剤や麻薬、賭博は依存性が強いことから、個人の正常な選別能力によって判断したとは言えないことから規制を行う。また、売春の多くは、とりわけ経済的窮迫状態にある女性を性の道具として扱うものであり、男性と女性をいわば主従関係に置くものである。経済的理由で売春を行うことは、他に生活の途を立てる選択肢がなく、事実上の強制に基づいて行われるものであり、自己決定とはいえない。すなわち、パターナリズムは、個人の選別能力を基準に制約を正当化するものである。

 一方で、モラリズムにおいては、社会道徳に反するという観点から、規制を行う。例えば、日本において、わいせつ物の頒布が犯罪とされている理由は、性的秩序の維持と最小限度の性道徳を維持するという点にある。

 このように道徳を根拠に一定の行為を犯罪とすることは、形式的法の理念に抵触することになりかねない。すなわち、道徳に反する行為を犯罪として処罰すれば、道徳に反する価値観を持つ者が抑圧される社会となりかねないのである。したがって、道徳を法で強制する場合には、慎重な態度が求められる。


(2)同性愛の非犯罪化

 モラリズムについては、イギリスにおける同性愛の非犯罪化論争(ハート・デブリン論争)が参考になる。


 ①同性愛処罰

 同性愛は、16世紀から19世紀の半ばまでは、自然に背く犯罪として絞首刑とされていた。1950年代当時は、同性愛は精神疾患であるとみなされていた。したがって、イギリスでは、同性間のわいせつ行為はもちろんのこと、合意のある成人男性間で私的に行われる同性愛行為であっても犯罪行為とされていた。


 ②ウォルフェンデン報告

 同性愛犯罪化の是非についてウォルフェンデン報告が出された。本報告においては、刑法の役割について、「①公序良俗を維持すること、②危害から人々を保護すること、③搾取や堕落の危険から守る手段を提供すること」とした上で、「人々の私生活への介入や特定の価値観を強制しようとすることは、刑法の役割ではない。」とした。そして、「同性愛を刑法によって処罰することは、許されない。」とした。

 この報告書によれば、同性愛行為が小児に対してなされる場合、若しくは公共の場でなされる場合は、刑法によって規制されるべきであるものの、成人同士で私的な場においてなされる場合は非犯罪化すべき、ということになる。これは、ミルの他者加害原理を下にしている。


 ③ハート・デブリン論争の内容

 ハート・デブリン論争は、ウォルフェンデン報告に対して、デブリンがモラリズムの立場から批判し、ハートがリベラリズムの立場からデブリンを批判する。


 Ⅰ:争点

 ハート・デブリン論争の争点は、次の2つにある。

 まず第一に、①刑法が個人に対して、道徳を遵守することを強制できるか否かという点である。そして第二に、②どのように刑法で処罰すべき犯罪を決定するかという点である。


 Ⅱ:デブリンの主張

 デブリンは、ウォルフェンデン報告のミル的リベラリズムの理論に反対した。なぜなら、道徳を守らなければ、社会の崩壊につながるからである。したがって、法には道徳を守る役割があると考えた。

 また、道徳の内容は、「道理のわかる人」の基準によって判断される(合理的な人のように理性によってではなく、感情によって判断する人々にゆだねる)。したがって、刑法上は、他者加害原理やパターナリズムだけでなく、道理のわかる人の基準も用いることが必要であり、そこから、処罰すべき犯罪を決定するということになる。


 Ⅲ:H.L.A.ハートの主張

 ハートは、ミルの立場から、デブリンをモラリズムだと批判する。すなわち、法は個人を危害から守るためにあるとし、道徳を強制することは認められない、とした。もっとも、パターナリスティックな規制はある程度認められるべきである。

 ハートによれば、道徳の不遵守によって社会の崩壊につながる根拠はない。すなわち、法によって守らなければならないとする実証性はないのである。

 したがって、ハートの立場は、他者加害原理及びパターナリズムの観点から処罰すべき犯罪を決定するということになる。


 ④私見

 私見としては、デブリンの立場(モラリズム)に立つ。

 そもそも、ハートの立場(リベラリズム)によれば、正義の反映である法は、常態として善に優先する。すなわち、正義は各人の価値観とは独立に決まるといった中立性を有する。

 しかし、リベラリズムが理想とする価値観の中立性は維持不可能である。リベラリズムの考え方に依拠すると、妊娠中絶を善いとするか悪いとするかは、正義が介入する問題ではなく、個人の価値観に委ねられることになる。すなわち、正義を実現する国家は、妊娠中絶について、何らかの政策決定を行うことはできないことになる。

 例えば、妊娠中絶を認める立場(プロチョイス)は、一見中立的であるものの、胎児は人格ではないという価値判断を肯定している。他方で、妊娠中絶を認めない立場(プロ・ライフ)は、女性の自己決定権を軽視することになる。このように、価値観に対して中立的な態度をとる場合、国家が特定の政策を形成することは不可能となってしまうのである。したがって、道徳を法に反映することは許されるべきである。

 これに対して、「同性愛を認めないというのは、個人の自己決定を阻害することになり、多様性を減殺する社会となりかねない。」といった批判が想定される。
 
 たしかに、道徳を個人に遵守させることは、特定の価値観を個人に押し付けることになり、多様性を減殺する可能性がある。

 しかし、社会において普遍的に認められるべき価値観ですら遵守すべきではないとすれば、社会は退廃しかねない。

 例えば、母親が望む形質を持つ子供を産む自由を須らく認めることは、障がいを持つ子供を産まない自由をも認めることになり、優生思想を正当化する危険性をはらんでいる。このような道徳の観念が遵守されなければ、社会は退廃しかねないのである。したがって、かかる反論は失当である。

 では、社会で遵守すべき道徳の基準とは何か。

 私見によると、「道理のわかる人」ではなく、「社会が遵守すべき普遍的な価値観」を法で処罰すべき基準として定めるべきである。

 そもそも、「道理のわかる人」の基準は、感情によって判断することから、人によって、道徳の判断が分かれ得る。そのような感情に依拠する結果、リベラルが危惧するように、多様性を減殺することになりかねない。

 そこで、多様性及び社会秩序の維持という要請を満たすべく、「道理のわかる人」の基準よりも緩和した基準として「社会が遵守すべき普遍的な価値観」という基準を設けるべきである。

 この立場に立つ場合、同性愛という行為は、刑法で処罰すべき犯罪として認められない。すなわち、同性愛は、何ら社会に腐敗をもたらすものではない。また、とりわけ現代の自由主義国家においては、個人に対して平均的な能力を求めるのではなく、むしろ個人の得意や興味関心などの「個性を尊重するといった風潮」にある。すなわち、現代の自由主義国家においては、社会が遵守すべき普遍的な価値観も「個性や多様性の尊重」に代わりつつある。そのような中で、同性愛という個性を抑圧することは、「社会が遵守すべき普遍的な価値観」に反することになり、妥当ではない。
 
 以上の通り、法は、個人を危害や愚行から守るためだけでなく、道徳を遵守させるための役割も果たすべきである。また、法で定めるべき道徳の基準は、「社会が遵守すべき普遍的な価値観」という基準によって画すべきである。

3. 悪法論争

(1)総論

 悪法とは、社会が遵守すべき普遍的な価値観と矛盾する法を意味する。例えば、優生思想の下、ナチスドイツや日本等は 障がい者に対する断種法等を制定していた。また、南アフリカにおいては、人種分離政策が行われていた(アパルトヘイト)。これらの法は、生命や身体の保護といった普遍的な価値観に反するという点で悪法とされている。

 このような法は、個人の権利や自由を侵害するものの、我々は、従うべきか、あるいは従わなくて良いのかが問題となる。


(2)悪法に対する見解


 悪法に従うべきか否かについては、次の2つの見解が存在する。すなわち、①自然法論及び②法実証主義である。


 ①自然法論

 自然法論は、実定法より以前に存在する自然法に法の本質を求める。すなわち、国家が定めた法は自然法を実定法として定めたものであるから有効だと考える。

 この立場に立つ場合、悪法は議会で正しい手続を経ていたとしても法ではなく、人々は従わなくて良いということになる。

 もっとも、自然法とは何かという点において、合意を形成するのは容易ではない。すなわち、自然法が何であるかという考えも人によって判断が分かれるし、時代や地域によって価値観も異なる。その結果、自然法を楯に、法を遵守する人々がいなくなり、社会は「万人の万人に対する闘争状態」となりかねない。

万人の万人に対する闘争状態
 万人の万人に対する闘争状態とは、社会契約が成立する以前の社会において、各人が自然権(生命や身体、財産などに対する権利)を行使した結果、無秩序に陥った状態を意味する。この中では、強者のみが自己の権利を実現することができ、弱者は自己の権利を実現することができない。

 ②法実証主義

 法実証主義は、議会が制定した法律という点に法の本質を求める。すなわち、法の内容が道徳的でなかろうが、議会において、正規の手続を踏んで定められた法は、必ず遵守しなければならない(法的安定性)、と考える。

 この立場は、自然法の存在を否定しているため、悪法であっても法である以上は従わなければならないことになる。

 もっとも、どんな悪い法であっても、一度国家によって制定されて実定法になると「悪法もまた法なり」としてこれを遵守しなければいけなくなる。その結果、人道に反する行為が権力によって容易に実施されることになる。実際に、ナチスが合法的に政権を取り、法改正という正規の手続を踏んでユダヤ人の大量虐殺が行われている。


(3)どちらを採用すべきか

 ある問題に対して、法をそのまま適用した結果、正義に反することとなった場合、自然法論と法実証主義は次のように対応する。

 ①自然法論

 自然法論は、法を適用した結果、正義に反することとなる場合は、自然法の解釈によって解決する。
 もっとも、万人の万人に対する闘争状態という問題は解決されない。


 ②法実証主義

 この立場は、自然法の存在を否定しているため、どのように対処するかが問題となる。

 Ⅰ:概念法学(法の神話)
 概念法学は、法の論理を万能とする考え方であり、現存する国家の実定法のみが法であると考える法実証主義の系譜をそのまま受け継いだ立場である。実定法を適用した結果が正義に反するとしても、そのまま適用すべき、と考える。

 そして、裁判は、法の自動適用であるから、裁判による法創造の余地も認められない。したがって、裁判官は「法を語る口(モンテスキュー)」にすぎない、と考える。すなわち、裁判官による恣意的な判断を防止することができる。

 このように考える背景は次のとおりである。

 19世紀の古典的法律学は、近代市民革命の政治的要請を基礎としたものであった。すなわち、①三権分立による法・裁判からの政治的要素の排除によって法の自立性・自己完結性の要請を満たし、立法権を尊重した。また、②経済的自由主義によって、経済への法や国家の不介入が原則とされた。それを支えるために、契約自由の原則や所有権の絶対性等の古典的民法体の整備や労働者の社会権を認めなかったり、労働運動などの弾圧を正当化する刑事法が制定されていた。

 もっとも、法実証主義に対する批判がそのまま当てはまるし、裁判官は、現実の裁判で各種の利益衡量を行っているにも関わらず、法が万能であるとして、一切の利益衡量ができなくなれば、法の健全な発展を疎外し、むしろ裁判官の無責任な恣意を許す危険をも孕んでいる、との批判がある。

 Ⅱ:自由法論
 自由法論とは、あくまで、実定法の正当性を認めつつ、法適用の結果、正義に反する場合には、裁判官による正しい利益衡量が行われていることを正面から認め、裁判官の創造的な役割を認める立場である(裁判官の法創造の承認)。

 ここに、正しい利益衡量とは、法を社会生活の要求に奉仕させるものであり、法を社会発展の要求に対応させるものである。この考えの特徴は、法の解釈を目的に基づいて考える(目的論的解釈=法の目的を考慮し、その目的を実現する方向で建設的な論理展開を考え、妥当な結論を導き出す)。すなわち、法的安定性のみならず、個別具体的な事案に応じて、社会正義に適う結論を出すといった具体的妥当性をも重視する立場である。
 


 ③私見


 基本的には法実証主義を採用すべきである。なぜなら、自然法論の考える恒久不偏の自然法は、国家によって異なるからである。

 そして、法実証主義の批判を乗り越えるためには、裁判官の法創造を積極的に認める自由法論の立場に立つべきである。なぜなら、概念法学の立場においては、人道に反する法であっても、正義の法として、人々が従わなければならなくなるからである。また、自由法論の立場を実現するためには、裁判官に対して違憲審査権を認めることが必要となる。


解いておきたい問題

・法の支配について述べなさい。

・弁護士の間には、青い本や緑のしおり等の交通事故における損害賠償請求額の算定基準を解説する書籍が流通している。このような算定基準には、被害者本人の属性を当てはめることで定型的に逸失利益を計算することができ、迅速に損害賠償額を決定するといった利点がある。
 このように、あらかじめ損害賠償額の算定基準を定めることに対し、被害者側からどのような批判があるかを述べた上で、その適否についてあなた自身の見解を論じなさい。

・弁護士は、依頼者の行った犯罪に対して、どのような行動をとるべきか。2つ以上の考え方を述べた上で、それぞれの考え方を論評し、あなた自身の見解を論じなさい(類題:教師や親が児童・生徒や子どもに対して体罰を加えることは認められるか。体罰を加えることを認める見解及び認めない見解の双方を立論した上で、あなた自身の見解を論じなさい。)。

・次の事例を読んだうえで、設問に答えなさい。
事例:
①A病院において、感染症に罹患したB患者は、人工呼吸器を装着しなければ、呼吸ができない状態にあった。
②これに対して、C医師は、B患者に対し、「感染症が進行すれば、口腔内に細菌が広がってしまうため、気管切開の手術を行うべき。」と提案した。
③B患者は、その提案は了承できない旨の返事をした。
④C医師は、B患者が頑なに手術を了承しない態度をとったことに対し、手術の重要性を伝える一心で「呼吸器を止めてみますか?」と問いかけた。
⑤B患者は、C医師の返事を受けて憤慨し、「止めてみろ」と挑発を行った。
⑥C医師は、これを受けて人工呼吸器を約2分間停止させた。その結果、B患者の呼吸状態は悪化したものの、後遺症はなかった。
⑥B患者は、C医師の行為が暴行罪に該当するとして、告訴した。

設問:
 上記事例において、医療に従事する側からは、「患者に対して、適切な説明を行った上で、同意を得ていない場合(いわゆるインフォームド・コンセントを満たしていない場合)は、医療倫理に反するため、厳重な処罰を求める。」との声が上がった。
 上記のような意見について、あなた自身の見解を論じなさい(類題1:日本における姦通罪論争について説明し、あなた自身の見解を論じなさい。類題2:ハート・デブリン論争について述べた上で、同性愛の犯罪化につき、あなた自身の見解を論じなさい。)。

・「感染症蔓延化において、個人の行動を規制することは許されるか」という問題提起に対して、あなた自身の見解を論じなさい。

・悪法について、異なる2つの考え方を呈示した上で、あなた自身の見解を論じなさい(類題:慶応ロー2015年度)。

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