16歳の起業家津田佳和さんに聞く
2021/9/4(木)クラブハウスイベント
津田佳和さんに聞く
音声アプリ「クラブハウス」は、2021年初頭から急激にバズったコミュニケーションSNS。そこでは、全世界への扉が簡単に開かれ、リアルワールドでは考えられない偶然緒出会いがあった。
その中の一人、津田佳和さんのプロフィールが面白すぎて、インタビューした記録を共有する。
ルームには120名ほどの聴講があり、盛会となった。
終了後「元気が出た」「やる気になった」というコメントを頂いたのが、何よりうれしかった。
津田佳和33歳
今の自分は、
資本主義、勝ち上がっていく生活から
自由に生きることにシフトした。
結果、刺激と安定のバランスが良いし、
大きな仕事でも、孤独になっていない経営者だと思う。
大企業から小企業までの仕事をやれている。
えり好みしない、ジャッジしないが、自分の仕事のスタイル。
B to Bだと寂しさ感じる。
組織を持たずに大きな仕事をする。
経営者にありがちな孤立感が少ないと思う。
単発の仕事ではなくて、
コロナ渦だからこそ、コミュニティの構築が大切だと思っている。
現在、そうなれたのも、いくつかのターニングポイントがあったから。
パニック障害1年間、山にこもって木こりと生活、や
27歳社外役員のオファーで、1時間何十万もらう生活、などを経て、今の自分がある。
16歳で個人事業主
中学校1年で祖父が亡くなった。当時の家は畳屋、職人さんが父、祖父が経営者だった。友達が多かったが、学校より就職を選んだ経営の道を選んだ。
祖父が亡くなった時に、畳屋が斜陽に。フローリング時代に突入。経営悪化で売り上げ減少。生活費や今後の将来の費用を、自分で稼ぐ必要があった。
タウンワークを見て、就職したが、中卒で15歳は、雇ってもらえなかった。12-3万円で福利厚生がないという悪条件だった。
月40万必要だったので、仕方なく、高額な仕事を探した。選択肢は、土木、水商売、訪問販売しかなかったので、訪問販売からスタートした。
通信商材、1-2年で目標金額を貯め、20歳で飲食店を始める。
生きる道、今できることを考えて、実行していった。
19歳からテナント借りて、準備して20歳の中頃にオープン。
深海の中で飲めるバーを心斎橋のリートプラザビル。
南警察署の近く、徒歩2~3分の好立地だった。
そこからイタリアン、寿司、など、次々と展開していった。
成功の理由は、時代のタイミングも大きかった。
キワキワのギリギリで、飲食でブランド確立しているところがまだ、少なかった時代だった。何かを特化していくことが当たり前になる前。社会貢献性、明確なストーリーがなくてもいい時代。
お店の個性の時代になる前、ホットペッパー独り勝ちの時代。
食べログがまだない時代。
その時代の波に乗れた。
そしてそこで学んだこと、は、人材教育
23-24歳で借入なしで4店舗出した。
当時、求人出さずに人が集まった。
飲食出すのは、一国一城の主といわれた時代
学校行けなかった子たちが、コンビニでたむろしていた時代に、その子の親たちが連れてきた彼らが、従業員となった。
彼らの夢を叶えてあげようと、がむしゃらに仕事した。
ターニングポイント~全従業員が離れていった
60人従業員のストライキがあった。
当時は、全国飛び回って、親に会って、感動の採用していた。
好調の波に乗って、事業展開、飲食部門、コンサル、デザイン動画制作、3つやりだした。
大手のマネージャーと仲良くなって、外部の優秀なマネージャーを引き抜いていったところ、昔からのチームとの軋轢が生じ始めた。
立ち上げた旧の仲間と新しい新の仲間との言語が異なる状況。
コミュニケーション不足がすべてだったと反省している。
内側のコミュニケーションより、多業種展開に意識がいってしまった。
資本の中での外食産業純利益が決まっていたので、労働時間帯の改善など
60人辞めていった時は、ショックだった。とはいえ、後々8割戻ってきたが。
社長のコミュニケーション術
寝ずに働く睡眠3-4時間が続いていた。
背中を見せるタイプの社長、他人一番働いていた社長だった。
同年代から10~30歳年上の職人さんまでを雇っていった。
自分のより年上の社員に何をどう伝えれば良いかわからなかったので、毎日、泣きながら勉強した。
思いと志の集まった仲間たちが大切な仲間だった。
食べさせてあげる、夢を叶えたい、環境を作ってあげたい、という思いでやっていた。
皆がそれぞれに感じていた孤独、自分たちは本当に世の中に必要なのか、と思っていた子たちが集まってきた。
5回飛んだ子もいた。その子は毎回、土下座して帰ってくる。
許してまた受け入れても、そういうことを重ねると、周りが軽く見る。
最後には、その子を受け入れる、夢を叶える道を閉ざさないように、と、自分の意見を伝えてから、皆に決めてもらった。
何のために働いているんだっけ?
一生このまま、辛い状態で働いてるのか?
成功して変わる人もいっぱい見てきた。
外れたやつもいたけど、戻ってくる子もいっぱいいた。
幽霊かパニック障害か
ストライキで離反されて以後、10人20人で3店舗まで、なんとか回復した。そんな折、吐き気とめまいが起こった。
店のドア開けた瞬間、あ、これは、通常の体の具合の悪さではない、と気づき、その瞬間、頭に浮かんだ言葉は「幽霊にとりつかれた」
すぐに
3-4店舗店長に電話して、盛り塩と掃除を依頼。
店長皆で集まってもらって、自分に塩を振ってもらった。
万全を期して再びドアに入った途端、違うことに気づいた。
固唾をのんで見守る部下たちに振り返って
「幽霊じゃなかった」と告げたことは、今でも、当時を知る社員との笑い話になっている。
パニック障害の治療で山ごもり
早速病院に行き、ブラックジャックのような先生に診てもらう。
先生の説明は「軽自動車で180キロで進め続けてきた状態」とのことだった。心拍数が異常に高かったことを覚えている。
先ず先生に「仕事を辞めようか」と言われ、胸ぐらつかみ抗議した。
そんなことできるわけない。
そこで、辞めない方法を模索することになった。
治療法としては、とにかくしばらく仕事を離れることにした。
たまたまバーに1度来てくれた木こりのカズちゃんのいる山に3週間こもることにした。
「1年くらい山にこもるけど、みんな頑張れる?」と聞いたところ、皆賛同してくれた。とても嬉しかった。
思えば当時、店長、マネージャーに解決できない問題が携帯にかかってくるので、電話に出たくなかった。
結局、自分が山に行き、不在時の売り上げはだいぶ落ちたが、皆の成長につながったと思う。
当初、電波がない山にこもり、携帯電話漬けの生活から一変。
本当に不安だった。
山での変化
「頑張って動けば動くほど、成果は出る、やり切れてしまう、成長できる」
というハイテンション状態から、急に休む状態になったのだ。
木こりのカズピーの家に居候しながら、少し歩くと電源入れる場所があったので、そこまで歩いて行って、最初は毎日、電話で、店の様子や売り上げをチェックしていた。
以前は、即レスで電話対応、ハイテンション、それもしんどかったが、治療で離れてもしばらくは、その状態に依存する傾向が続いた。
とはいえ、木こりのカズピーの家に戻ると、カズピーは、おしり掻きながら、テレビ見てる姿を見てのんびり過ごしている。その姿を見て、「終わった」とも思った。
それでもその生活を続けていくと、そこから3-4か月かかって、自分自身が変わってきた。まめにチェックしていた携帯も、少しずつ手放せるようになった。
中学生から面倒見てくれていた社長、アポなしでいろいろな社長に会いに行っていたので、仕事で成果を上げて、大切にしてもらって、成長して、友人たちも将来に希望を持ってきてくれた。
ところが、病気になって、スキルアップしていく道がなくなった
存在価値も評価もなくなったと感じた。
木こりのカズピー
カズピーは木こりなので、朝早く4時か3時に起きて、14時15時に帰ってくる。
自由時間、車も運転できたので、DVDをいっぱい見た
かずぴ~の奥さん、
当時の彼女と一緒にいた
珍しく夜中の12時くらいに起きていて、怖い心霊写真とかのDVD見ていたら、台所のフライパンがポンとかなって、それ以来、観なくなった。
ターニングポイント「言霊」
仕事だけが人生じゃない
生きるってどういうことなのか、すごく考えさせられた
自分の存在意義、本当に世の中に必要なのか
ストライキ、発病により、7店舗から1店舗に絞った。
承認欲求欲しくて、がんばっていたのに、崩れ落ちて、本物だけ残って、小さくなったけど、また病気になって、という試練の中、
100%仕事できない自分の価値は、なんだろう、
誰も助けられない自分になってしまうのではないか
と、とても不安だった。
そんな自分に
「子どもに戻ろうよ」
と木こりが教えてくれた
お付き合いのあった上場企業の社長が
「子どもはバランス取れてるんだから、子どもに戻ろうよ」
と言ってくれた。
カズピーは
「カー君の生き方はすごいと思うけど、僕らはそんなことはできない。社会の中で評価されてすごいと思うけど、それを本当にカー君は楽しいと思っているの?」
と言われて、何も言えなかった。
仕事も仲間も大好きだけど、ずっと不安だった。
従業員たちも不安だったので、いつでもできる、なんでもできる、という人でなければならなかった。
60人ストライキの後、頑張り過ぎの短距離走から、長距離走に変えていかなければならなかった
頑張れた理由
子どもの時、母が泣いていたのを見ていた。
父がいい人で、契約してしまい、返金できない状況を見てい。
その姿を見ながら、
「一番になろう、人を幸せにする人になろう」
と思っていた。
仕事を通じて、
皆が輝ける場所も提供できた
キラキラできる場所を作れた
それはそれで悔いはないけれど、崩れてしまった自分のバランスだった。
復帰から後
1年かけて自分の中のバランス感覚、整えて、山から下りてきた
徐々に復帰していって、少しずつ。
最初は、常連さんと目を合わせるのもしんどかった。
少しずつ。
グランフロンドができて、少しずつ人が心斎橋から減りだしていた時期でもあった。
この頃から、事業スタイルも変わってきた。
27歳から社外講演をやりはじめた。
主に、ビジネススキル、フランチャイズ経営戦略の話をしている。
トークショーもしていたことがあるが、今回のようにどっぷり自分の背景を語ることはなかった。
1000人公開コンサルをしていたこともある。
15,000円で600人。
自分は飽きやすいので、
そこからエンタメを入れていくこともした。
例えばシルクドソレイユの日本人の友人と、
松竹の人、レゴさん、お化け屋敷とトークショーなど
おもろい企画+学びがある企画を思いつくままにやってきた。
復活した自分が大切にしていること
楽しいこと
自分自身に嘘つきたくない
自分らしく居続ける
人に合わせ過ぎないこと。
このブランドをしっかりと作り上げていくこと。
個人のしっかりしたブランドを作り上げないと、
選ばれる仕事ができないと楽しくない
単価の高い仕事であること。
薄利多売なのか、
あなただからお願いされたい仕事をしたいのか、
数字ではなく、気持ちを追いかけるのが大切。
自分が楽しいことをやればやるほど、ブランディングにつながる
ズレがない、熱狂的なファンになってくれる。
人のジャッジが気になる人へのアドバイス
→バランスよく付き合えばいい
空気読める奴が好かれる、倫理観がない人は厳しい、
人がハッピーになるものを作ってあげると、人が集まってくる
立場を気にしたい、ブランド興味ない、超一流の人とも対談できるのは、素直に人として捉える。無害であることも大事だが、
自分に嘘をつかない
その基準は
自分がどの状態でも、その自分の中で優しさを選択したい、
バランス取れるか、どうか
警察に持っていける自分かどうか、
自分の中の定義を守れるかどうか
ラッキー、
と持っていくのか
常に欲は、つきまとう
自分の欲と他者との
バランス
試される日々。
現在の指標となる言葉
自分に正直、「自分の中で優しさを選択する」
自分の欲よりも人のための優しさを選択する
優しさの定義は、皆が笑ってへらへらできること
人によって異なる価値観に寄り添うこと、
と
自分の中の心地よさとのバランス
病気以来、自分とむきあう、と決めてる
自分自身の行動が、自分にやさしいのかどうか
優しさのバランス自分と人
これからのテーマとなる言葉
大事にしている言葉
自分のスタイルが真逆に変わっていっている
自分自身の成功、組織の成功、みんなの夢を終える
30代からは社会貢献、全世界の人が平和で笑っていること
皆が平和である世の中って何なのか
中堅の後継者として背中見せながら
加藤たかさんと対談、エンタメ性
人を楽しませながら、全世界を爆笑してました、となったらいい
皆がみんな、自分らしく、
自分自身の軸を大切にしながら、人を大切にしながら
世界を平和に、幸せにする
日々感謝できる人間は強い
何か起こった時でも、感謝できる自分の在り方
【後記】
軽やかに、苦労話もいつの間にか爆笑トークにしてしまうかあ君こと津田佳和氏は、今や、あらゆるroomにゲスト登壇するクラブハウスの売れっ子である。
語っても語っても尽きない無尽蔵の経験値と、肯定感、物事を楽しむ気持ちが、明るい軽い言霊となって、聞く人々の心を軽やかにしてくれた。
快くインタビューに応じてくれた津田氏、名司会Takahiro氏、roomにいらしてくださった全ての皆さまに、心から感謝を申しあげる。
このインタビューシェアが、あなたの心の機動力となってくれたら、これ以上嬉しいことはない。
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