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休憩室の白いソファ
一人でいることの「好き」と、近くに人がいる「好き」が一緒になるから、職場の休憩室が好きです。
遅い時間の昼休憩。1つだけある白いソファ席で弁当を広げます。時たま遠くの通路を人が歩いたり、自販機やゴミ箱に近寄るだけで奥にいるわたしに話しかける人はそんなにいません。弁当を食べ終えると暇になってしまうので、ソファにもたれかかって、目を閉じるのが好きです。目を閉じて、そのまま意識が沈むこともあれば、目は閉じたまま頭も耳もハッキリしていることもあります。
今日は、頭も耳もハッキリしている日で。
壁一枚向こう側ではコール音やコピー機、人のざわめきが聞こえてきます。ゴミを捨てに来た人が誰かはわかりませんが、人が寝ていることに気が付いたのか足音が少し小さくなりました。絶えず人の気配を感じているけれど、わたしの近くには誰もいません。この感じ、なにかに似ている。
あ、そうだ実家だ。
ひとりで部屋にいるときに聞こえる話し声や、襖1枚のところで寝ている母を意識して小さなボリュームで観る夜のテレビの時と同じ感覚だと至りました。
誰も自分に注目していない安心と、近くに知っている誰かがいる安心。近すぎるのもうざくて、遠すぎると寂しい。このバランスはすごく難しくて、片方の安心を取るために他者に依存してしまったこともありました。
でもこの両方の感覚があるから、人間は今日まで存続してきたのかな、とも思ったり。
うまく言えないけれど、一緒にいたい、だけでは「大人」になれません。「大人」は自立しているから。一人でいたい、だけでは「自分」が迷子になってしまいます。「自分」をみるまなざしは、他者がいてはじめて得られるものですから。
一緒にいたい、と、一人の世界でいたい、の両方の想いに人は苦しみながら、アッチにいったりコッチにいったりを繰り返して今日まできたんじゃないかしら。
2つの安心の、いいとこどり。そんな時間は束の間だからこそ一等素敵なのです。休憩が終わったら現実に戻るとわかっているからこそ、この温い感覚に委ねられるのだと思います。
毎日がそんな風に、天国ではないけれど(笑)
弁当を作りつづけられる理由の1つくらいにはなっているのかもしれません。
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