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季節は地球からの贈り物

 最近はとにかく天気や季節の話をするようになった。幼い頃は、そんなのじいさんやばあさんがする話、テーマだと思っていた。だが、気温の変化を感じ、たんすから服を出したり、季節の果物を食べたり、その時々の花を眺めて写真に収めたり、そんなことが楽しくなってきたのだ。これが大人になったということなのか。

 自分は暇さえあれば祖母の家を訪ねるので、それこそ天気や季節の話ばかりする。「最近は暗くなるのが早いね。」「ほんとね。気温もやっと落ち着いてきた。」「でもまだ今日の昼にクマゼミが泣きよったよ。」「まだ鳴きよっとね。これイチジクを剥いたけん、あんた食べなさい。」「お、ありがとう。おいしいね。」こんな会話が俺は好きだ。別にこんなことを話そうと思っているわけではないが、こういった言葉や話題が口からするすると出てくる。

 正直、近頃毎日が代り映えのない毎日だ。一攫千金なんてこともないし、あの子とどうとかもない。やりたいことなんて全部やり切ったように思う。ヨーロッパも自分の目で見てきた。色んな国の人たちと話してきた。大きな病気にもかかって、悲劇の主役のようなものにもなった。やり残したことは、ない。いつ死んでもかまわないので、祖母とはいつも「死に活」の話に花が咲く。「日射病がよかよ。あれはなんも苦しくまんですーっと死ねるけん。」別にお互い死にたがっているわけではない。ただ、ものごとに興味をあまり抱かなくなったのは確かだ。なにかしらのニュースを見ても、二人とも「ふーん」や「はーっ」がせいぜいだ。

 学生として過ごした間、月をまたぐごとに何かしらのイベントがあった。テストだったり、文化祭だったり、部活動だったり、何かしら一仕事を終えて区切りをつけるようなものがあったのだ。歳を重ねれば、そんなものを企画してくれる人もいなくなるわけで、一つを除いて全て自分で行わなけらばならない。そんな中向こうから自分でやってきてくれるのが天気や季節だ。あいつらは定期的にかつランダムに我々を訪れてくれる唯一のイベントである。

 先日、家から少し離れたところにある公園に自転車を走らせてコスモス畑を見てきた。山のふもとで家なんてほとんど建ってないような場所なので、その公園は広々としている。風が吹くと髪の毛が揺れ、コスモスたちが仰け反っていく。あの公園はよかった。手の込んだトリミングをされた長毛種の犬もいないし、とても散歩をする格好に見えない貴婦人みたいな人もいない。この公園では犬を先頭に、子供たち、両親が風を背中に受けて駆けていく。

 夕方になって冷えてきたので、一軒ぽつんと光っているコンビニに入って、HOTの紅茶を買って飲んだ。幸せな気持ちになった。風が気持ちよかった。コスモスがきれいだった。はしゃぐ子供がかわいかった。いい一日だった。なんてことではないかもしれない。何のために生きている、そんなたいそうな話はできない。ドラマのような大きな話もない。でも毎日少しずつやってくる地球からの贈り物、こういった変化を毎日楽しんで、少しずつ年老いて、死んでしまうときに死のうと思う。そんなことを考えていました。

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