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【創作大賞2024恋愛小説部門】青春恋愛小説『私になれ、この皮膚の体温の』第9話
9.
「このあいだ、無断欠席したんだって? 担任から電話があった」
久しぶりに降っている雨が、家にたどり着いて閉じようとしたビニール傘になおも大きな水玉を作ろうとするのを、なんとか逃れたところで母が言った。
ぐしゃぐしゃの髪の毛にハンテンという恰好で、ガラスケースを机の代わりにして店番をしながら今日の授業の予習をしているようだ。ガラス板の上に英語の辞書と理科の参考書を広げて、計算機片手に歴史資料集を読んでいる。椅子にすわって前かがみになっている母の真後ろから少しずれた敷居にすわり、通りに目をやった。
小学生やら中学生やらの固まりが、ガラス戸の向こうでゆがんだ像をつくり通り過ぎていく。鼻がむずがゆくなって手の甲で鼻孔を押し潰すようにすると、鼻水が出た。十一月になってからいっそう空気が冷たくなっていて、今そこを通っていった女子が首に巻いていたはずの、チェック柄がかわいいマフラーが欲しかったが、言えなかった。
笑い声とともに安藤商店に入ってきたふたりの男の子は、私と母の存在などまるで目に入らないかのようにしゃべりつづけている。ゲームの裏技の話をしながら、店の入口ふきんに並べられたお菓子に視線を投げてから、奥につりさげられている埃だらけの袋にひそんで出番を待っている紙飛行機やらコマ、けん玉、ゴム風船などを順番に見てはいるが、同時にくちびるを忙しなく動かしている。
裏技をどういうふうにして発生させ、どう駆使すると敵を倒すことができるのだ、と納得したところで、ふたりとも当然のように七色玉とチョコカステラのビニール袋をつかみ、めいめい五百円玉をガラス板に置いたから「はい、おつりね。ありがとう」と声をかけて見送って金庫をしめたら、母が言った。
「ちゃんと行きなよ」
うん、と言ってまたさっきの位置に腰をおろして、膝小僧の皮をむしった。
乾燥しているせいか皮膚に細かく線が入っていて、爪でひっかくと剥がれて断片になってひらひらと落ちた。折り曲げたままにしている右手指の関節が割れて、赤く血がにじんでいる。くちびるにあてて吸うと鉄棒の匂いと味がした。それ以上の何かを待っていても、母はもう、何も言わなかった。
店の大きなガラス戸によって切り取られる、店の外を歩く人たちが、急に強く地面を刺すように落下しはじめた雨粒にかき消されていき、母が顔をあげた。私は私と同じ風景を母が見ているのを、母の背後から見ている。決してとなりで見ることはない。
担任の先生は、進路調査票に私が母のサインを偽造したことには気づかなかったのだろう。母に電話をかけられたついでに、私の未来の選択についても告げ口されたかと思ってどきどきしていた。電話一本で済ませて、この家を訪問しない先生に感謝しなければならない。
母の丸まった背中をこっそり上目遣いで見る。母の秘密を知られたくない。
先生が訪問したら、それを理由に、知らぬふりをして母のとなりにすわるべきなのか、それとも私だけが知っている母の秘密を暴露するきっかけを作るために、台所にずっと隠れているべきなのか。どれが正しいふるまいだろう。
ただ深いだけの母のふたつの穴が漆黒に変わり、魔女になる日がある。
今日がその日であるような予感がして、身体が少しこわばっていた。
台所から伝わってくる空気の振動は、障子の隙間をすり抜けて耳をくすぐる。化学物質の粒子たちも、布団に横たわる私の身体を薄い膜のようにおおってきて、どこからでも侵入できるよう準備が整えられたのがわかる。
やはり、母は今夜魔女になるのだ。
目をつむったまま音を聞いているだけで、魔女が今何をしているか全部わかってしまう。これまで数え切れないほどのぞき見てきたから。
白い細かい粉末や、きらきらと光る毒の粒子を水あめといっしょに鍋にたんまりと振り入れ、木べらでかきまわしながら煮詰めていく。ふんだんに混入した人工着色料のせいで、複雑な色がついたり、または無色透明だったりするどろりとした熱い飴の原形だ。それをステンレスの調理台に広げ、器用に金属のヘラを操って固まりを作りながら冷ましていく。色のちがうものを組み合わせて細長い棒状に伸ばしてから、ひと粒大に切る。
最後に、取っ手がついた鉄板で上から軽く押さえ、円を描くように転がすと丸くなってくる。この作業を何度もくり返せば、数十袋もの毒入り七色玉の出来あがりだ。
母は七色玉だけではなくて、焼き菓子作りにも奮闘する。カステラやマーブルケーキなど母が作るものはどれも美味しそうだ。もちろん、それらにも毒がごっそり入っている。ひととおり作業が終わったのか台所が静かになった。電器が消えた。母は物音ひとつ立てない。じっと息をひそめているようだ。
何かをこする音がする。いつのまにか眠ってしまっていた。
部屋に敷いた布団に母は寝ていなかった。身体を動かさずに眼球だけをゆっくりとまわして、暗がりでタンスの引き出しをあけ、なにかさがしている母を見つけた。しばらく布と布がこすられ、そして母の動きが止まった。
私は不自然にならないよう、ゆるくまぶたを開いたままにしている。母が私のほうに向き直り、枕元にすわった。白く光るものを膝の上に置いているのが、うっすらと見える。身体が緊張し過ぎて動いてしまいそうになる。それでも必死に耐えた。母の顔ははっきりとわからないが、ただ息づいているのを感じていた。
暗闇が目に映り、はっとした。また眠ってしまったようだった。そっと起きあがり、障子をあけておそるおそる廊下を見たけれど、母はいない。裸足のまま庭に降り立つと、地面はひんやりして身震いが起きた。指の先ほどあいている木戸の隙間からのぞくと、酒井弁護士の庭が見えた。
まるで母は亡霊のように歩いていて、かつて間の抜けた白い金魚の死骸を捨てた今ではすっかり干からびた池の横を、ちょうど通り過ぎるところだった。伸び放題になっている草をかきわけ、かきわけ、母は弁護士の家のドアのまえでぴたりと止まった。私は木戸に身体を寄せて、息を止めた。音もなく母は弁護士の家に入っていった。
私は台所に戻って、乱雑に積まれた器具類の山から大きめなケーキの型を引っ張り出した。そして、作業を始めた。
泡立て器でふっくらとさせた卵に甘い毒をたっぷり振り入れて、溶かしたマーガリンといっしょにかきまぜ型に入れると、不気味なほど白くて化学合成添加物の混合物にしか見えないが、オーブンに入れて三十分もすると、全体がこんもりとしてきて、てっぺんに乗せたつやのある茶色をした焦げ目はぱっくりとひび割れた。
ナイフで切れ目を入れる。ひと切れ口に入れると、もうひと切れ食べたくなり、そうするともうきりがなく、あっという間に俵の形をしたケーキは消えてなくなってしまう。
指に張り付いている食べかすを、くちびるを突き出して吸うようにして、残らず胃の中におさめたあと、いつも必ずゲップが五回ほど出た。それをきっかけに、腹の底から湧きあがるようにしてくすぐったい感覚が食道の粘膜を細かくゆさぶり、ぶるぶるっという震えになって、口の内側から頬の皮膚、首筋より下のほうへくだって全身を巻き込んだ。
もしかしたらこの感じが忘れられなくて、また作りたくなるのかもしれない。そしてまた次のケーキを焼いた。これはきっと良くないくせなんだ、やっぱりやめなければいけない、と思っても湯気を立てている甘い毒に手が伸びてしまう。
10.へつづく
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