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夜のしじま以降

ときどき、だれもいない、なにもない、水の底にしずんで。ただぷくぷくと文字を吐き出していたいと思うことがある。
たとえば今がそう。あぶくになった文字はゆらゆらと心もとなく浮上していって、そうして空中にまぎれてしまう。文字を吐いているという事実だけがあり、吐かれた文字はもう消えている。
家のなかでまだだれも起きていない、深夜のつづきの夜明け前がわたしはすきだ。静かな時間と、おだやかな世の中をみとめて、わたしは水の底にしずむ。
そうしてぷくぷくと文字を吐く。
たまに鳥の鳴き声がすればいい。
消えた文字の気配を、鳥がくわえてくれたら、もうそれでいい。わたしはムルソーではないけれど、異邦人になることはできる。水の底にしずんで。


万条由衣


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