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今月読んだ本 (14)

2024年5月

 今月もkindleで読んだ英語の本の紹介から。今月はWalter Isaacson "Einstein"を読みました。実は、オッペンハイマーの伝記を読むつもりだったんですが、日本語訳で上中下3巻にもなる長いものだったので、まあ同じようなものだと思って、今回はアインシュタインにしました。自伝を含めて、アインシュタインの伝記は昔読んだことがありますが、中身はほとんど忘れているし、この本はジョブズやイーロン・マスクの伝記も書いた名手アイザックソンが著者なので、かなり期待して読みました。とはいえ、この本も日本語訳では上下2巻になる長いものだったので、ナチスに追われてアメリカに亡命してからのアインシュタインについてはある程度知っているからと、今回は、日本語訳では上巻にあたる前半部だけを集中的に読みました。もっとも、アインシュタインは、相対性理論などの歴史に残る業績はヨーロッパにいた30代までに成し遂げていますから、アメリカ亡命後のアインシュタインは、その政治的文化的影響力は別として、物理学者としては余生のようなものだったと言えないこともありません。

 では、アインシュタインの前半生はどんなものだったか。アイザックソンは膨大な資料を駆使して克明に、しかし一般読者の興味や関心をそらさず解りやすく描いています。さすがの手腕でした。アインシュタインの父親は一族で電気工事関係の会社を経営していてかなり豊かだったようです。ユダヤ人ですが宗教的には寛容で、アインシュタイン少年はかなり自由に育てられました。ミュンヘンのギムナジウムで学びますが、当時のドイツの教条主義的な教育には馴染めなかったようです。ヘッセの「車輪の下」みたいなものかな、違うか。ミュンヘンでの事業に行き詰まった父親がイタリアのミラノに移ったことから、アインシュタインもドイツを後にします。16歳の時でした。アインシュタインは一時ドイツ国籍を放棄していますから、いかにドイツの教育が性に合わなかったわかりますね。少年時代から数学や物理学に特別な才能を示していたアインシュタインが進学先に選んだのはチューリッヒにある工科大学でした。(現在は、スイス連邦工科大学チューリッヒ校という名称だそうです。)ただし、その大学に一度で合格したわけではなく、フランス語など文系学科に難があったアインシュタインは、一年ほどスイスの予備校のような学校に通います。その学校が素晴らしいところで、アインシュタインはそこで良き師に巡り会うとともに、その教師の美しい娘とも相思相愛の仲になります。しかし、工科大学に進学したアインシュタインは、そこで同級になった唯一の女性、セルビア出身の、美人ではないがエキゾチックな魅力を持った女性、ミレバ・マリッチと出会います。まあ、日本で言う「理系女」ですね。この女性がアインシュタインの最初の妻になりました。二人の間には息子が二人生まれます。(まだ正式に結婚する前に女の子が生まれていますが、彼女は養子に出されたのか、夭逝したのかいまだに不明だそうです。これがアインシュタインの前半生最大の謎。)

 優秀ではあるが自信家で生意気だったアインシュタインはチューリッヒ工科大学の教授から嫌われたようです。卒業はできたものの凡庸な成績で、卒業後に教職に着くことができませんでした。教授の推薦がないだけではなく、妨害された可能性もあるようです。大学を卒業しても就職先がなく、恋人ミレバとの結婚には両親が大反対するなど、窮地に陥ったアインシュタインを救ったのは友人たちでした。友人の一人がアインシュタインにベルン特許局の仕事を紹介してくれたのです。結果的には、これがアインシュタインの運命を変えました。アインシュタインの能力をもってすれば簡単で退屈だった特許局の仕事はアインシュタインにたっぷり研究の時間を与えたのです。アインシュタインは物理や数学に興味のある同志をあつめて、仕事の余暇に物理学を教え始めます。自らオリンピア・アカデミーと名付けたその仲間たちとともに、研究はさらに進みました。そして、1905年。奇跡の年が訪れます。アインシュタイン26歳の時でした。アインシュタインは、「光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」などの科学史を書き換える重要論文を次々に発表しました。それらの画期的な論文は、当時の物理学界の大物、ドイツのマックス・プランクなどにすこしずつ認められていきましたが、アインシュタインに教職のオファーはありませんでした。これは彼のユダヤ人としての出自が影響していたのかもしれません。というように書いていては切りがありませんね。詳しくは本書をお読みください。とても面白いから。私のように、アインシュタインの論文の内容は理解できなくても、アインシュタインという大天才が身近に感じられるようになることは保証します。後半生については、別の機会に改めて読もうと思います。オッペンハイマーも登場するかな。そうそう、これは業績が認められて教職についた後のことですが、最初の妻ミレバとの離婚問題が長引いた時、アインシュタインはまだ授賞もしていなかったノーベル賞の賞金(これは大金です。)をすべてミレバに譲ると約束したことは有名です。それだけ自分の仕事に自信があったんですね。なにしろ天才ですから。

 次に読んだのは、先月に続いて、柴崎友香さんの文庫本「百年と一日」でした。短い文章を集めた掌編集ですが、他に類書のない無二の傑作だと思いました。星新一のショートショートを思わせるところがあるのは、感情を排した淡々とした文章のせいでしょうか。ここに収録された数々の人生の物語は今昔物語や御伽草子のようでもある。「百年と一日」という題名の意味を勝手に解釈すると、主人公のある一日の行動や出来事を切り取って、その人の人生全体を暗示するのが短編小説の王道だとすれば、この小説は百年を単位にしている。そんなまるで天上の神様のような視点で見れば、人生はすべておとぎ話のようになります。昔、司馬遼太郎は、歴史小説を書くのは屋上から眼下の小さい人間を観察するような面白さがあると書きましたが、それと共通するものがあると思います。それだけ遠くから観察すれば、人間の喜怒哀楽などは見えなくなる。でも、それは決して虫けらを見るような冷酷な視線ではない。逆に、とても暖かい。人は自分の感情を、その小さな人物たちに移入することが出来るから。柴崎さんは、この作品集のテーマは「人と場所と時間」だと言われたそうです。なるほどと思いました。いかにも柴崎さんらしい。ニュートンは時間と空間はそれぞれ独立したものだと考えていましたが、それを否定して、時空間は一体のものであると証明したのがアインシュタインの相対性理論でした。柴崎さんの描いた場所と時間も決して別々のものではありません。いや、ここでは人間も含めて三つが一体のものとして描写されています。この掌編集に収録された短い物語の数々を読み終えるたびに感じた無常感、寂寥感、それを上回る、人間や街に対する愛おしさのような感情は、そのことに由来するのだと思います。ちょっと強引な解釈でしょうかね。それにしても、時間というのは不思議ですね。古希を超えた私にとっては余生はもうあと10年ほどしかない。今から10年前を考えればほんの昨日のことのようです。でも、今の私にとって、これからの10年はかなり長い時間です。鶴見俊輔さんは自伝の題名を「期待と回想」としました。実際の経過時間とは関係なく、回想の視点で眺めた人生は短く、期待の視点でみた人生は長い。この「百年と一日」に収録された物語の数々は回想の視点で書かれました。それらを期待の視線で読み直すのは読者の仕事です。柴崎さんがその塗り絵の薄い輪郭線だけを描いた、たくさんの人生に彩色して血肉を与え、時間の流れを反転させ、現代を生きる生身の人間として読者の脳内で生き直させるのです。私は、そんな読者としてこの掌編集を読みました。それは楽しい時間でした。もちろん、私のそんな読み方は作者の意図を越えた、あるいは無視した、せっかくの神話的世界を生臭い人間世界に変えてしまった、二次創作に近い行為だったかもしれません。この作品集は、私をそんな行為にかりたてる程の物語に充ちていたということです。空の雲や星を眺めていると、人間世界の悩みごとが馬鹿馬鹿しくなるような癒やし効果を持つこの小説集を台無しにしてしまうような読み方かもしれないので推奨はしません。

 次に読んだのも文庫本。酒井順子、原武史、関川夏央、お三方の「鉄道旅へ行ってきます」でした。三人の著者それぞれのファンである私にとってはまさにオールスター・キャスト、アベンジャーズによる本でした。私は旅が好きで、鉄道に乗ることも好きですが、鉄道マニアというほどの知識はまるでありません。でも、鉄道に関する文章を読むのは好きでした。この本の親本は10年以上前に出版されたそうなので、情報としては古くなっているわけですが、宮脇俊三さんの著作が今も読まれているように、この本の内容も決して古くはなっていません。だからこそ、今、文庫化されたわけですね。しかも嬉しいことに、この文庫には最近行われた三人鉄道旅の記録が付録として収録されていました。それにしても、この三人での企画を考えた編集者は良い仕事をしましたね。鉄道を語らせて、今これ以上の組み合わせは考えられない。文庫本のあとがきに関川さんが書いておられましたが、当時の原武史先生は実にとんがっていましたね。鉄道マニアへの憎悪に溢れている。近親憎悪でしょうか。最近の原先生はずいぶんと丸くなられたようですが。いずれにしても、この本は、個性的な著者お三方それぞれへの敬愛の念をさらに深めてくれた、小さな宝石のような本でした。この文庫本をポケットに入れて新たな鉄道旅に出かけるには、すでに私は年を取り過ぎているのが残念です。

 次に読んだのは単行本。松岡正剛「空海の夢」。私が読んだのは春秋社が昭和59年(1984年)に出版した初版本でした。まだ30代だった私が買ったのはいいが歯が立たなかったので、そのまま40年間も死蔵していた本ということになりますね。よく手放さなかったものだ。本の帯にはこうありました。「二年余の沈黙を破り、若き鬼才が、全東洋思想と生命科学を背景に、雄大なスケールで書き下ろす空海論!」 確かにその通りの内容でした。松岡さんが「若き鬼才」と呼ばれていた時代の著書なんですね。松岡さんの最近の回想で、司馬遼太郎が「空海の風景」を先に出版したので、焦って急遽まとめた本だとおっしゃってました。さて、40年間の時を経て、私はこの本の内容を理解できるようになったんでしょうか。やっぱり理解はできませんでした。でも、長年にわたって「正剛文体」に慣れ親しんできたおかげで、最後まで読み終えることができたし、所々ですが、理解もできたように思います。単に意味もわからず有難いお経を聞いたというのではなく、仏典を読んだりして、少しはお経の意味もわかってきたということに似ているのかもしれません。今年は空海生誕1250年の年にあたるということで、手に取った本ですが、そういう事情ですので、その内容については私の浅薄な要約や感想はここに書かないほうがいいと思います。これはたしか司馬さんも書いていたと思いますが、最澄の比叡山からは道元、日蓮、法然、親鸞など多くの優れた人材が輩出したのに、高野山からはほとんど出なかったのは、空海があまりに超絶した天才だったからだと思います。現在に至っても、空海の全容は誰にも把握できない。空海を理解することは宇宙を理解することだというくらい。いかにも松岡さんらしいなと微笑ましく思ったのは、直接的な表現ではありませんが、空海は「編集工学」の祖だというようなことを書いていたことでした。

私が読んだのは初版本

 次に読んだのは全集本。今年生誕100年を迎えた安部公房の全集です。68歳で亡くなった安部公房没後4年目の1997年発行。表紙に認識票のような金属プレートをつけた凝った装丁で、高価な本でした。だから、私が持っているのは最初の001と最後の029の二冊だけ。全集本は場所をとるというのが理由のひとつでしたが、全70巻に近い司馬遼太郎全集を揃えているんだから、安部公房全集も全巻買うべきだったと、今になって後悔しています。ドナルド・キーンさんが監修したこの全集は、ジャンル別ではなく編年で編集されています。安部公房の研究者にとっては実に便利な全集だと思います。ドナルド・キーンさんは三島由紀夫との深い交流で知られていましたが、安部公房とも親友だった。三島由紀夫と安部公房は高校時代の私にとっても大事な小説家でしたが、SF少年だった私にとっては、安部公房の方がより大事な存在でした。三島由紀夫のSF的な小説「美しい星」は今でも好きですが。当時の私にとっては、安部公房と美術家の真知夫人は理想のカップルのように見えていましたが、女優の山口果林さんの「安部公房とわたし」を読んでひっくり返りました。夫婦関係はとっくに破綻していたんですね。道理で、娘の安部ねりさんの「安部公房伝」での父親像が妙に冷たかったわけだ。最初に読んだ時は、ねりさんも父親と同じ理系の人だからこういう文章なんだと思っていました。山口果林さんによると、安部公房が真知さんと離婚して果林さんと再婚することをためらったのは、安部公房にノーベル文学賞を獲らせたい編集者らの意向があったからだと言います。スキャンダルを怖れたんですね。出ました、ノーベル文学賞。三島由紀夫が自殺した遠因は、三島ではなく、その師の川端康成が日本初のノーベル文学賞を受賞したからだという説がずっとありました。結果的に、三島だけではなく川端康成までも自殺することになってしまった。授賞を切望した安部公房はノーベル文学賞を受賞するに至らず、受賞したのは年下の大江健三郎でした。安部公房が亡くなって1年後のことでした。

 余談が長くなりました。今回読んだ全集本の話をしましょう。まず、安部公房全集001から。編年ですから、まだ無名時代からの最初期の小説や詩、論文、エッセイなどが収録されています。最初に収録されているのは、旧制成城高校の校友会誌に掲載された文章でした。安部公房は満州で医者の息子として育ちましたが、成城高校から東大医学部と内地で高等教育を受けています。この論文は、いかにも旧制高校生が書きそうな生硬なものでした。旧制高校は精神の「遊歩場」でなければならないと主張するものです。「遊歩場」という言葉が面白い。この巻に収録されている文章で、私が知っていたのは「無名詩集」「終りし道の標べに」でした。「無名詩集」は、まだ東大医学部生だった安部公房が自費出版したものです。その頃に友人に出した手紙がこの巻に収録されています。音楽喫茶で知り合った美校を卒業したばかりの真知子(これが本名のようです。)さんと結婚したことを知らせ、借金で困っているので、「無名詩集」を誰か知り合いに売ってくれないかという依頼でした。まだ自身の行き先が定まらない時期に結婚するなんて無謀ですね。後年、安部公房は医者にはならないと指導教官に約束して東大医学部をなんとか卒業させてもらったと言っていますが、本当だったかも知れません。医学部で学びながらも、当時の安部公房はすでに文学の道をめざしていました。彼は旧制成城高校でドイツ語を教わった阿部六郎に私淑していて、阿部に見てもらった「終りし道の標べに」の草稿を阿部が埴谷雄高に見せ、埴谷が認めたことが、安部公房の作家としての出発になりました。今回、この二作を読みました。実は、「無名詩集」をちゃんと読んだのは今回が初めてでした。12篇の詩、1篇の散文詩、1つのエッセイが含まれています。エッセイにはリルケに対する心酔の言葉が書かれていました。詩の一篇に「リンゴの実」というのがあり、「真知の為に」という副題がついていました。(ここでは真知ですね。)リンゴが何を象徴しているのかはわかりません。この詩の最後はこんな風に書かれていました。「君が差出した一つの結実を/今僕は唯明るい夢の様に怖れる/涙も亦一つの球体ではなかったか」。

 次は、安部公房全集029。最終巻です。当然ながら、没後に発見されたものを含めて、最晩年の文章が収録されています。その他、全集の刊行が始まってから発見された、座談会の記録を含む、資料の数々が補遺として収録されているのも全集編集者の丁寧な仕事ぶりを思わせて好感を持ちました。その補遺の中に、「数学型と語学型」というエッセイがあって、数学的才能と語学的才能は相反する才能だと言われるが、安部公房自身は数学的才能に恵まれていて、高等学校に入っても数学で苦労したことは一度もないし、難関だった東大医学部にも入試に数学があったから入れたのだが、語学などの記憶力を必要とする学科は苦手だったと書いてあって、なるほどと思いました。私などは数学も語学も苦手でしたが。もうひとつ補遺から。最も好きな言葉は?というアンケートへの回答として安部公房があげたのは、「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるにひとしい。」という魯迅の言葉でした。

 今回、この巻でちゃんと読んだのは、「飛ぶ男」「カンガルー・ノート」という未読だった二つの小説と、大江健三郎さんと河合隼雄さん、それぞれとの対談でした。「飛ぶ男」は書き下ろしの長編として構想されたものの書きあぐねていて、その執筆中に安部さんは大病を患い、退院後に気分転換に書いたのが「カンガルー・ノート」だったそうです。こちらは順調に完成して雑誌に発表もされた。河合隼雄さんとの対談では、この作品がテーマになっています。「飛ぶ男」を完成させることなく、安部公房は世を去りました。死後、愛用していたワープロ「文豪mini5」で執筆され、フロッピー・ディスク(懐かしい!)に保存されていた作品は遺作として雑誌に発表されましたが、その時には真知夫人によって一部が改変されていて、今回、この全集に収録されたのは、フロッピー・ディスクをもう一度再確認して校閲を経たものでした。未完の断片ではありますが、とても面白くて、もし完成していればブルガーゴフの「巨匠とマルガリータ」のような作品になっていたかもしれないと思いました。

 大江健三郎との対談は、「飛ぶ男」の執筆中、「カンガルー・ノート」発表前に行われたようです。編年での全集は、そんな事がすぐにわかって便利ですね。この対談では三島由紀夫のことが話題になっていました。安部公房は三島の思想は嫌いだったが、三島の人柄は好きだったと述べています。対談の中で、安部、大江、三島の三人で、安部公房の師匠だった石川淳を囲む会をしたことに大江さんが触れていました。なんとも凄いメンバーですね。その時の記録があれば読みたかった。この対談では、大江さんが「治療塔」という自身のSF作品に触れて、科学的知識がなくて失敗したと言ったのに対して、大江さんは科学的知識がありすぎたんだよ、SFは科学的知識がない方がうまく書けると応えていたのが、いかにも逆説家の安部公房でした。さて、「カンガルー・ノート」。安部さんの生前に発表された最後の小説です。どうにも感想に困る作品でした。この小説の発表当時、この年齢になってもまだカフカごっこをしていると冷笑するような批評が出ていて、それに影響されたわけではありませんが、当時既に安部公房ばなれが進んでいた私は読まなかったわけですが、当時読んでいたら、さて、どんな感想を持ったでしょうね。男の脚にかいわれ大根がはえてくる話。安部公房自身が自作に触れて、「われながら変な小説」と言っている。だから、意味はわからなくても雰囲気を面白がってもらえればいいと。そう言われれば、キラキラしたイメージがこの作品にはたくさん詰まっていました。円城塔など、最近の日本SFにも通じる味わいがありました。これが、大江健三郎の言う、四十年間日本文学の前衛を走り続けてきた作家の最後の作品になったわけです。「飛ぶ男」が完成しなかったのは残念でした。そうそう、先ほどの自作を語る文章の中で、「カンガルー・ノート」の作中に登場する「緑面の詩人・縞魚飛魚」にはモデルがいると安部さんが言っていましたが、あれは島尾敏雄のことかな。誰のことなんだろう。

 この「カンガルー・ノート」発表後に行われた河合隼雄さんとの対談がまた興味深いものでした。河合さんはユング派の精神分析が専門でしたが、もともとは京大で数学を専攻した人です。その点、本当は数学科に進みたかったけれど、兵役免除がある医学部に進んだという安部公房とは共通点がありました。河合さんは文学は嫌いだが物語は好きだと言い、安部公房は、自分も文学は嫌いで、処女作を発表してからも、自分は川端康成も三島由紀夫も名前も知らなかったと言っています。似たもの同士です。この対談で面白かったのは、河合さんが、「カンガルー・ノート」は、「考えるヒント」の有袋類かなと言ったことでした。この小説の中で有袋類にはそれぞれに対応する非有袋の動物が存在するというような考察を書いていた安部公房も、これには一本とられたようです。言うまでもなく、「考えるヒント」は小林秀雄の作品ですが、安部さんは小林秀雄なんて読んだこともないと生前言っていたことを思い出しました。いずれにしても、こうして久しぶりに安部公房を読んでみて、高校や大学時代に戻ったような気がして、懐かしさで胸が温かくなりました。

 今月最後に読んだのは竹内好さん編集の文庫本全集「魯迅文集6」でした。今年の4月に「八道湾の家・魯迅と周作人」という短編小説(らしきもの)を書いてnoteに投稿したんですが、書いている途中に、自分は魯迅の作品を「阿Q正伝」以外にほとんど読んでいなかったことに気がつきました。それなのに、書棚には「魯迅文集」が揃っているじゃありませんか。というわけで、今月、文集の最終巻、つまり魯迅晩年の文章を読むことにしました。竹内好さんによると、魯迅は論争好きで、売られた喧嘩はかならず受ける人だったそうですが、この巻にはそういう文章ばかりではなく、魯迅の人柄を示すような気楽な文章もいくつか収録されていました。それらを読んで、初めて等身大の魯迅を身近に感じられたように思いました。もう15年も前のことになりますが、夫婦で上海に旅行した時、私たち夫婦は魯迅公園を訪れて魯迅紀念館を見物し、横にある魯迅の立派な墓にも拝礼してきました。その時に、有名な内山書店の跡地にも行きました。内山書店は日本人が経営する上海の書店でした。魯迅はそこに毎日のように通っていました。文集にはこんな文章がありました。私がいつも内山書店に行くので、私のことを漢奸と呼ぶ者がいると。魯迅の死後になりますが、弟の周作人が漢奸として牢に入れられたことを思うと一種の感慨がありました。この文集に収録された文章で一番面白かったのは、弁髪に関して書かれた文章でした。魯迅は日本留学中に弁髪を切って、ざん切り頭になりますが、帰国してまず最初に行ったのは上海のカツラ屋だったそうです。そう、弁髪のカツラがあった。一ヶ月ほどそのカツラを使用したけれど、馬鹿馬鹿しくなって止めたそうです。でも、しばらくは、ざん切り頭を保守的な周囲から非難された。帰国してしばらく郷里で教師をしていた魯迅は、生徒たちから弁髪を切りたいと相談された時、私は弁髪に反対だが、今は切らないほうがいいと答えて、生徒たちから反感をかったと書いています。生徒のことを考えて答えたのにと。幸い、弁髪は清朝の崩壊、民国の誕生とともに、廃止されました。弁髪はいうまでもなく清代の習慣でした。清朝に対する反感がよほど大きかったんでしょう。清朝最盛時の名君と言われる乾隆帝の、その代表的な施策のひとつだった「四庫全書」をさえ魯迅は批判しています。歴史的な文書を、清朝の体制に有利な様に改竄したというのです。このあたりはいかにも論争家魯迅らしい文章でした。そんな魯迅ですから、母親が決めた最初の妻が纏足をしていたことに耐えられず、若い愛人に走ったのは仕方がないことだったと思います。

 余談ですが、「八道湾の家」を読んだ人から周兄弟の八道湾の家はいまどうなっているのかと聞かれました。あの家は立派に復元されて、この地に引越してきた「北京市第35中学校」(中高一貫)の敷地内で「八道湾魯迅紀念館」として活用されて一般にも公開されているそうです。もし機会があれば、見に行きたいと思いますが、現在の中国はちょっと敷居が高いですね。旅行ビザも要るし。

  

 
 


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