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カメラマンがカメラを持たずに旅行した話

日々、1日平均250枚くらい写真を撮って過ごしているのだけど、今回の旅行にはカメラを持っていかなかった。

先月、めっちゃ展示してめっちゃ撮ったらめっちゃ疲れてしまったから、もう撮りたくないなって理由で、カメラを持たずに一泊二日の旅行へ。撮りたくないと思ったのは人生ではじめてだ。

大切な親友と、卒業旅行と称して倉敷と直島へ向かった。友達と旅行に行くのははじめてだった。(卒業旅行とか言ってるけど、私が大学を卒業したのは2年前、当時卒業旅行には行かなかった。一緒にいきたいと思える人がいなかったのと、色々あってそれどころではなかったので、、、。そして親友は院を今年卒業する。)

一緒にいるだけで楽しい人と過ごす時間はスッゲェ楽しかった。よかった。そのことは大前提だけど、毎日毎日10年も撮り続けてきたのに、あんまり写真を撮らずに過ごした二日間を通して思ったことがいくつかある。

まず、なんか暇だった。食べるくらいしかやることがないなって感じ。

次にカメラがないと世界から面白みが薄れたと感じたし、めちゃくちゃ美しい景色の中にいるのに、言うほどでもないなと感じているのが正直なところだった。

そこで、ずっと撮る中で物を眼差していく力を身につけてきていたんだと自覚した。そして今日ばかりはその力を捨ててしまいたいと思いかけていることにも。

眼差す力ってなんだよって感じだけど、ほらなんか、プロの人が撮った写真ってめっちゃ良く見えたりするじゃん。あの景色そのまんま、私の目には映ってたんだよね。自分の着眼点と向き合って、物に対して何を感じていたのかをしっかり考えて、物の裏側にあるものばかり考えて、それでやっと手にした目線だった。

分かりやすい話とかは https://twitter.com/manimanium/status/1204033346096885766?s=21 これとか。

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そんな感じで、力を捨ててみてはじめて、自分が写真でお金貰えるくらいになってる理由が分かった。

他の人とは見えてる世界が違うんだって評価を受けても意味不明だったけど、力を捨ててみてそうだなって思ったんだよね。

私が私として、生きる世界を見つめていくことは、とても理想としていたことだけど、その目線を他人から求められることで疲れてしまっていたのかも。世界には情報が多くて、感受性ってある程度麻痺させないと苦しくなったりするけど、それを麻痺させるのを許されないというか、そういう風に思い込んでしまっていたんだなと気づきました。

培ってきた視線で世界を見つめていくことに対して、もう疲れてもう嫌だなと感じていたけど、捨ててみたら世界はあまりにも味気なかった。

何か物事をやり続けて行った人には違う世界が見えるってのは本当だし、それが価値になり、孤独にもなるってことを確信できる旅行になりました。

私から写真を奪ったら、わたしには何もなくなる。見える世界すらすっからかんになってビックリした。今日からまた写真を撮ることで、訪れる世界に向き合い続けます。

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