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写真で食べていけるようになるまでの人生の話。


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 私がカメラと出会ったのは物心つく前。
子どもの頃の私は撮られることが嫌いで、母親のフィルムカメラを奪ってはシャッターを切りたがっていたらしい。大したものは撮れていなかったけど、カメラを手にすると手放さなかったそうだ。
この話は私が写真で生活するようになってから母が教えてくれた。
「今思えばあの頃から才能があったのかもしれないね。当時は気にしてなかったけど」と。

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写真のことを意識するようになった時のことはハッキリ覚えていない。
物心つく頃にはカメラを手にしたがっていたし。

小学生の頃、私の母親は休みなくバイトを3つも4つも掛け持ちして、休まずに働いていた覚えがある。
なので、私がよく遊んでいたのは従姉妹の家庭だった。遊園地に行ったりプールに行ったり、お出かけする度に6つ年下の従姉妹と楽しく遊んでいた。従姉妹の親御さんたちも、私がいれば子どもの面倒を見なくていいから楽なのだろう。本当によく遊びに誘ってくれていたなあと思う。
お出かけする時、記念にいろいろ写真を残すものだけど、従姉妹の記念写真を撮るのが好きだった。親戚の中では上手に写真を撮れる方だったし、写真を撮ると喜ばれる。従姉妹の家から毎年届く年賀状には、私が撮った従姉妹の写真がいつも使われていた。
撮ってばかりいたから母親からは「なんであんたは写真に写ってこないの」「写っておいで」とよく注意されていた。会えない時間の私を見たかったんだと思うけど、その気持ちは大人になるまで分からなかったなあ。

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運動神経も悪くて、成績もそこそこだった私は家でそんなに褒められることがなかった。いや、そんなことは原因ではないな。
今でこそわかるけど、お金も時間もない家庭だったので、みんな色々と余裕がなかったんだと思う。
病気になるたびに迷惑がられていたし、口を開けばみんな愚痴しか話さない。何か事件が起きれば唯一子供である私のせいにされ、覚えていないけど両親が離婚する前父親からはしっかり虐待を受けていた。夫婦喧嘩で飛び交う皿と、3歳の私に根性焼きをしようとしてリアクションを楽しんでいた父親の顔だけは記憶にある。
愛されなかったとは思わない。それでもいい服を与えられ、誕生日やクリスマスとか、そういう催事はちゃんとあったし、みんな精一杯大事にしようとしてくれていたのを知っている。
家族から家族のできる限り精一杯愛そうとしてくれた家族とは裏腹に、心の渇きがずっと癒えなかった。
気持ちが渇いていくのに健康な体が、見た目が、あり方が、嫌だった。本当はこんなに元気ははずないのに。ちゃんと真っ直ぐに過ごしてきた訳がないのに。

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普通のフリができない変な子どもだったから、小学校に上がってから毎年春にはいじめに遭っていた。小学校四年生の時にそれが悪化して、先生とクラスメイトからいじめに遭い、家では家族が毎日怒鳴り合い喧嘩していた。(先生からはプールに沈められたりしていた。悪質だった)自分の部屋もない私は居場所がなくって本当に死んでやろうと考えていた。当時いた唯一いた友人と、話を聞いてくれた音楽の先生がいなければ行動に移してしまっていたと思う。小学校六年生では平和に過ごせていたものの
気持ちが憎悪に溢れ、心があまりに真っ暗になってしまっていたので、歌ったり、文章や詩を書いたり、手芸をしたりとか、10歳の頃にはもう拙い表現の中でしか息ができないようになっていた。


子供の頃、写真を撮ることは怒られなかったし、表現の中でしか息ができない体になっていたので、今写真で活動できているのかもしれない。


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さて、そんな調子で中学校に上がり、中学二年生くらいから地元を散歩しながら母親のデジカメを借りて写真を撮っていたりした。ゆっくり考え事をしながら散歩する時間はもとより好きだった。そこにカメラが加わることで世界が輝いて見えた。宝探しするみたいにいつもの道を歩けたし、実際カメラを持った途端にいろんなものが見過ごせなくなった。カメラが新しい世界に連れて行ってくれる心地がした。
中学三年生になる頃、カメラ付きの携帯を買ってもらった。そこからはほとんど毎日写真を撮っている。

中学三年生の時、合唱部の部長だったんだけど、部活をやめることになった。部活のいろいろを勝手に背負って勝手に抱えきれなくなった。今思えば鬱の兆候だったのかもしれない。歌うことは居場所だったし、手放したことに失望したしとても悲しかった。好きなことを辞めるのはこれで最後にしたかった。だから私は写真をやっていくと腹を括った。もうこれ以上居場所をなくしたくなかった。

写真を学べる高校を志願したが、親から大反対をくらってその学校に行けず、十代で一番泣いた。そのくらい写真がやりたかったんだと思う。

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結局私立の女子校に入学。府の保証で年収が少なかったウチは学費が免除になるので私学に通っていた。
高校に上がる頃にデコログを始め写真や文章を載せていた。(令和のみんなは知らないと思うけど、Twitterとかインスタが始まる前にそういうブログサイトがあった。)
そこではいろんな人と知り合った。弁護士の人メイクさんもいたし、当時同世代の人は今歌人になったりモデルになったりしてる。そこで知り合った人と小さなギャラリーに行ったりした。そこから高校生活の休日はギャラリー巡りをするようになった。

デコログでは毎日それぞれのブログを読んで、思うことや感想を言い合った。写真をよく評価してもらった。文章もかなり書いていたけれどブログを見ていた仲のいい友人から「叙情的すぎる、ダメ」と言われ続けて言葉をやめてしまった。若いまま何を言われてもやり続ける強さを持つのは結構難しい。それでも続けていればよかったと思う。言葉をやめて写真だけで語るようになってしまった。写真の中なら素直でいられた。

高校生活では毎日カメラを持ち歩き撮っていた。母親からもらったカメラをポケットにずっと入れていた。まるでお守りみたいに。友人の間でも「写真の人」という位置づけを得られて楽だった。校則の厳しい学校だったけど、カメラを持ってくるななんて校則はなく、黙認されていた(そこで撮ったものは玉石混合すぎて写真を選ぶのが大変だけど、そのうちまとめたいなあと思っている)

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ギャラリーを回るうちにグループ展などに誘われるようになり、高校二年生からグループ展に出すようになった。いろんなギャラリーでいろんなことを学んだ。展示会場で「サインください」とか言われるようになって、なんとなく作家であることの責任を感じるようになった。

高校生の時、とあるギャラリーのオーナーから「写真家(表現者)になりたいのかカメラマン(商業写真を撮る人)になりたいのか決めて。やることが全然違うから」と言われ、散々悩んでわからないまま来たんだけど、作家でありカメラマンをしている。どうやら迷った先でもやり通したら道になるらしい。

どうなりたいのかはイマイチわからないなりに、与えられる限りの写真の機会には全て応じたし、いろんなことをやった。高校から大学にかけて、テーマパークやファッションショーのカメラマン、ストリートスナップ、ミスコンのカメラマン、ブライダルカメラマン、飲食店のメニューを撮影したり、ラブグラファーをしたり、インターネットで知り合った色んな人と写真を通してセッションした。
それまでシャッターをただ切り続けただけの人だったが、写真を初めて4〜5年経って、現場で技術面を学んだ。

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大学では写真ではなくメディアのことやプロデュースのことを学んだ。高校の時にはもう周りに写真のことについて直接聞いたりできる人がいる環境になっていたので、わざわざ写真を学校で学ぶまでもなかった。大学で学んだことはとてもためになったけど、私の活動に肯定的ではなかったのであまりいい思い出がない。むしろ学校の外で色んなことが起きていた。

21歳の時に鬱と自立神経失調症になり大学に行けなくなった。小学生の頃から育ててきた黒い心と寂しさが、しっかりと害を為してきた。写真のバイトも全部やめた。
鬱の兆候は高校生の頃から兆候はあったが無視していた。「精神病者はすごく迷惑」という考えのある家庭で過ごしていたので、そんなそぶりを見せたら家からもっと居場所がなくなると思っていた。
鬱がバレて、母親が一気に老けた。私よりも泣いていた。まさか娘が当事者になるなんて思ってなかったんだろう。すぐに自殺すると思われていた。実際死にそうだったのかもしれない。完全に発症する前の一週間、栄養ドリンクと押入れの奥に眠ったお酒だけで生きていた。食事なんて喉が通らなかった。
一年間ほとんど布団の上から動けず、死ぬ気にさせてくるってこういうことかーと感じていた。鬱、想像を絶する辛さである。(五年経った今でも完治しないしまじヤバイ)
そんな中でも写真は撮り続けていた。仲の良い友人をよく撮らせてもらっていた。写真の中なら息ができる、写真だけはやれた。アドレナリンというか気力というか、そういうものだけで動いていたし、それが通用するのは写真だけだった。

この2016年をまとめた写真集を自費出版したら100冊近く売れた。自分の写真にお金を出してくれる人がいることが希望になった。この頃から写真に対して「まにさんぽいね」と言ってもらえるようになった。やっと自分らしさが出てきた。

家にいるのが辛いということを母に伝え、協力してもらい、母以外の家族には何も言わず、大学四年生で実家をでた。

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その半年後に付き合ってる男の家(ルームシェア)に転がり込み男3人と暮らし、その半年後には男に振られ家を失った。大学は1、2、4年の三年間通い詰めてなんとか卒業できた。

大学を卒業する二週間前、当時の男に「どうでもよくなった」と言われ、紹介してもらうはずの仕事と家を失い大混乱だったが、「ルームシェアして良いよ」と言ってくれたライターの子(三回しか会ったことがない)がいて、六畳一間での女二人暮らしがはじまった。鬱の元凶である実家に帰る選択肢はなかった。

卒業の一週間前に引っ越し、卒業直後にインフルエンザになりつつ個展を終え、車の免許を取りに行ったら突発性難聴になった。耳がうまく機能しないから、大好きだった音楽も会話もできなくなって孤独だった。治療を始めたのが早かったのでなんとか完治したが、財布はマジで空っぽになった。友達がなんかいろいろめっちゃ助けてくれた記憶がある。お金なくても友達と写真さえあればなんとかなった。

今まで使っていた写真の機材は、(カメラ以外)学校のものか元彼のものだったので、カメラとSDカードだけで活動を再開しながらバイトを始めた。(数ヶ月後にパソコンを買ってやっと写真編集を再開できた。)
バイトは朝ドラの美術の仕事をしていた。植物を扱う仕事、とても楽しかった。仕事さえちゃんとしていれば、仕事中写真を撮っていても何も言われなかった。花の写真をたくさん撮って、後に開催する初個展でその写真を発表した。

鬱になったあたりから、体が浮ついてる感じがして命の形が気になって仕方なかった。他に生きているもの死んでくもの(職場にある植物もそうだ)を見るのはとても落ち着きをもたらしてくれた。植物に携わる仕事ができてほんとうによかったなあと思ってる。

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シェアハウス開始から半年、引っ越さなきゃ行けなくなりお金が必要になった。(引っ越しに関しては、同居人と無事引っ越しを終え、一年過ごした後にルームシェアを終えた)引っ越しが必要になった時に「写真を5000円で100カット撮ります」という企画を打ち立て、そのツイートがバズり、フルタイムでバイトをこなしながら月に50件ペースで撮影するようになった。こんなものは一瞬で終わるだろうと思ったら、仕事が仕事を呼び、個人だけでなく企業案件とかまで呼ぶようになり、やがてバイトする時間もなくなり、今に到る。

こういう経緯で、写真で食べていこうとかも特に思ってなくて、ただ撮っていたら、写真で呼吸を紡いでいたら、写真で食べてる人になってしまった。コネもないのにラッキーガールである。今まで撮らせてくれた皆様本当にありがとうございます。もしよかったらこれからもよろしくね。

よく夢を叶えた人みたいに思われるけど、そんなかっこいいものでもない。でもここまで来てしまったし、例え写真がなくても呼吸できる自分に出会える日が来ても、その景色を撮りたいと願っている。

写真の外で呼吸できますように。そうなっても撮り続けられますように。今の私の夢です。

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