空白に忍び寄るは画鬼
朝、兵庫県立美術館にて開催されている《李禹煥》展に行く。会期の終了まで残り1週間ということもあり、多くの鑑賞者で賑わう。外国の方の姿もちらほら。
〈視覚〉から〈もの〉、そして〈絵画〉まで。各作品を通じて、私たちが実際に生きる世界の〈余白〉或いは〈流動性〉の可視化という側面を感じ取る。それは〈突きつけられる〉のではなく、〈開かれる〉という感触。一種の〈揺さぶり〉ともとれる。
主な作品を美術館HPより拝借。
昨年春に大阪で鑑賞した《感覚の領域》展にも通ずる類の体験であった。作品の内側に、外側に拡がってゆく空間。それは感覚の余白でもあり、自ら描くことのできるカンバスでもあろう。作家の思想性が見事に反映されていた。
兵庫県立美術館を後にし、岩屋駅、灘駅を横目に六甲山向かって北上す。次なる目的地は横尾忠則現代美術館だ。
記憶が正しければ、彼の作品との明確な接点はこれまで無かった。ゆえに色調が強い、と言うくらいのイメージのみしか持ち合わせていない。
本日開催されていたのは《横尾忠則展 満満腹腹満腹》である。これまでに開催された凡そ30を数える企画展をダイジェストで振り返る、とのこと。なかなか無茶苦茶な詰め込み企画ということもあり、彼の作品の初期から最近のものまで、満遍なく鑑賞することができた。
どうやら筆の呂律は機能不全に陥ったようだ。脳内は凄惨なまでに切り刻まれ、叩きのめされる。完膚皆無とはこのことよ。
かつて自らを〈画鬼〉や〈画狂人〉などと称した絵師は数多いが、彼にこそそれらの称号は相応しいのではなかろうか。圧倒的なまでの〈構想力〉と〈生〉の発露。
その刺々しい熱に〈我〉を侵され続ける体験。なにかこちらまで形容し難い活力で満ちてくるような体験。一種の未知との遭遇でもあろう経験。
何れにしても文字通り〈純粋に〉楽しむことができた。琴線に触れる作品も挙げようと思えばキリがないほど。李禹煥と同様に、彼の著作も読んでみたい。
帰宅を挟んでいつもの喫茶店にて泉鏡花の『薄紅梅』を読む。三作が掲載されている本書、表題作を読み終える。これはこれで〈Art〉であろう。
文章がするりするりと拳中より溢れ落ちる。諦めて文体と描写のみを楽しむ。午前中の李禹煥が恋しい一一一
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