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戦争と平和

卒業シーズンである。この時期になると思いだすのが、小学生の頃の卒業式の練習である。

「お別れの言葉」を、同級生みんなと唱和していた。毎年、ほぼ同じ文言を、何度も練習し、本番に挑む。

私が小学生だった1990年頃でも時代遅れ感があったが、30年を経た現在でも行っているのであれば、「多様性と逆方向だ」と指摘しても良いのではなかろうか。現在の教育方針は、学校は、軍隊ではないのだから。(明治~戦時中はイギリスの軍隊式を真似ていました。)

今回は、そういった不満を書きたいのではない。卒業式で唱和した「お別れの言葉」の中で記憶している言葉について書く。

「戦争の悲惨さ、平和の尊さを知りました。」

小学6年の春、修学旅行で広島に行った。平和公園に行き、千羽鶴を備えて手を合わせ、原爆資料館を見学し、語り部さん(被爆体験をした方)による講話を伺った。宮島にある厳島神社も興味深かったが、語り部さんの言葉は淡々としていた分、記憶に残っている。あれから30年近くを経た今でも、貴重な体験をさせて頂いたと感謝している。

卒業式の「お別れの言葉」は、修学旅行での体験を通じて「戦争の悲惨さ、平和の尊さを知りました。」と唱和する。

小学生の時分から、このフレーズにはピンとこなかった。12歳の私は、”戦争の悲惨さ”も”平和の尊さ”も、「知る」と言うのは容易ではないと感じていた。貴重な体験だとは認めるが、戦争、平和といった言葉の意味を”知った”と言って良いのだろうか。なんとなく嘘をついているような居心地の悪さがあった。だから今でも、「お別れの言葉」にあった、この言葉だけを覚えている。

ノーベル平和賞と「性的テロ」

昨年10月、2018年のノーベル賞の授賞者が発表された。平和賞の1人は、コンゴ民主共和国のドニ・ムクウェゲ(Denis Mukwege) 医師であった。

ムクウェゲ氏の活動、功績を報じるニュースを読んで絶句した。戦時下では、こんな酷いことが起きるのかと。そう思った。

それまで、つまり2018年の10月まで、”戦争の悲惨さ”とは、人が死ぬこと、愛する人と別れること、普通の人が普通の人を殺しあうといったことだと思っていた。しかし実際には、死ぬよりも恐ろしい事態があるように感じられた。

例えば私が同じように、性的テロを受けたらどうであろうか。例えばその行為により、子どもを孕んでしまった場合、我が子を愛することが出来るだろうか。生きていくことが出来るだろうか。死ぬ方が楽だと思うのではなかろうか。

生き恥を晒すとは思わないが、知らない誰かの子を産み育てる勇気など、私にはない。

この件は「性的テロ」だが、レイプや強姦といった行為もそう変わらない。

伊藤詩織さんの件に対する報道も、中絶用のピルが手に入れにくい日本という国の在り方も、おかしいという言葉では足りないように感じられた。どこからがヒトか?という議論もあろうが、そういった議論の前に、その女性の精神が、尊厳が、人生が、心配にならない事態にも疑問を感じた。

とは言いつつも、私自身、コンゴの現実を知らなければ想像が足りなかったので、誰かを責められるような立場でもない。

『My Child: Lebensborn』

私は、「うわあ…」と大きな衝撃を受けたとき、続けて同じようなものに遭遇することがある。

昨年11月に、Twitterであるゲームが話題になった。『My Child: Lebensborn』。有料アプリで2019年3月現在360円で販売している。

「Lebensborn(レーベンスボルン)」とは、第二次世界大戦直前のナチス政権が作った、純血のアーリア人を増殖する為の収容施設である。特にノルウェーは特別な地域とされ、収容施設の数も多かった。ナチスの指示でノルウェー人女性に、ドイツから来たナチス軍人との混血児を産ませたる施設だった。

第二次世界大戦後、ナチスは倒れ、残されたレーベンスボルンの子どもたちは、差別の対象となった。

プレイヤーはノルウェー人で、親としてレーベンスボルンで生まれた混血児を養子として迎え、育てていく。育成は一筋縄にはいかない。子どもは里親である自分をなかなか信じてくれないし、学校の教師も同級生も、自分の養子を差別する。お金や時間、食事といったリソース管理も困難で、貧しい中で矛盾と闘いながら、子どもを育てなければならないのだ。

一言でいって、プレイして全く楽しくないゲームである。どんどん、気分が悪くなる。私は気分が悪くなってしまい、半分くらい進んだ時点(2時間くらい?)でギブアップした。

しかし、シミュレーター、疑似体験装置としては大変優秀だとも思う。「血統主義」の異様さも、その後に続く混血児への差別も、想像力を凝らして頭で考えても、分からない。

もちろん、ゲームをプレイしても理解できるものではないのだが、それでも少しは、差別の理不尽さに触れたような気はした。これもまた、想像しただけでは分からない感情だ。

業田良家「慈悲と修羅」

先週、チベット好きな大学時代の友人と会うことになり、最近見つけたチベットを舞台にした連載漫画を教えよう思った。『テンジュの国』と『月と金のシャングリラ』の2作だが、この時点ではタイトルを忘れていた。

Google で「チベット マンガ」と打ち込む。

検索トップに表示されたのは、業田良家さんの「慈悲と修羅」という短編だった。2000年代のチベットで行われていた弾圧、”民族浄化”の様子が描かれている。

ネットですべて読めるのだが、無断転載を進めるのは気が引ける。そのため、リンクは貼らないが、ぜひ読んで欲しい。単行本だと『独裁君』という単行本に収録されている作品である。

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「慈悲と修羅」はニュースなどで文字で読んでも伝わりにくい、ゲームだと時間が掛かり過ぎる、漢民族による”民族浄化”内容を描いたマンガである。短い時間でありありと伝えるマンガはすごいな、と思う。一応、誇張がないかネット上のニュース等を確認したが、現実に起きていることのようであった。

題名で検索すると、読んでショックを受けた人がたくさんいた。私もその1人に加わった。

戦争の悲惨さ、とは?

大人になるにつれて気づくことではあるのだが、戦争には色々な、人の欲望や業が絡む。戦争の悲惨さなど、結局は体験しなければ分からない。他国の状況を慮りながら、想像しながら、解決に向けて出来ることを実行しながらも、できれば一生、「分からない」と言えた方が幸せなことだと思う。

「戦争の悲惨さを、真に理解できない」ことは「平和の尊さを知る」ことに繋がらないだろうか。

子どもたちに対して、自力で性教育を行う予定で、本を用意したりしている。

戦争というテーマは難しい。私に教えられるだろうか。

可能であれば、性教育も、戦争も、みんなで話し合いながら学べると良いのだが。正直、大教室で40人もいる生徒に教えるとなると、教える側の負担は計り知れない。教える側も、研修を受けたり、体制を組まないと教えられないだろう。

私は、島根の人口過疎地で生まれ育って、丁寧な教育を受けれて、本当に良かったと親や先生方、地域の皆さんに感謝している。

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長い文章を読んで下さり、ありがとうございます。またよろしくお願いします。

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