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中国の酒と医療~「酒は百薬の長」のルーツを探る~(その1)

noteの連続更新、今日で10日目なのですが、時間がない+教授が退官するので大学のサイトから文章を移動しておきたいので、大学の卒業論文を貼り付けます。

20年前に調査し、書いた論文ですが、我ながら悪くない内容だったと思います。担当教官がすごいだけの話ですが…。

今、私が子育てや育児漫画について研究しているのも、この卒論研究が楽しかったことに端を発します。

長いので3日に分けて投稿します。

中国の酒と医療-そのルーツを探る-

緒言

 酒の起源は定かではないが、嗜好品として人々に愛され続けてきた。また医療とも関わりが深く、「百薬の長」と称される。中国本草書には酒の様々な医療応用と使用方法の記述がある。本稿では、中国における酒の医療応用の記載がいつに始まり、いかなる発想に基づくかを諸文献から探りたい。

 これまでも当問題には多くの研究が重ねられてきたが、最近になって新たに出土資料が多量に発見され、古代の状況を如実に反映した文献を用いることが可能となった。さらにインターネットでは各種のデータベースが公開され、多量の文献に基づく詳細かつ正確な研究が中国学全般にわたり可能となった。すなわち現在は、以上の文献と方法を用いた酒による中国古代医療の史的考察を行う絶好の時期なのである。

 本稿では酒の医療応用を可能な限り過去に遡る目的から、まず考察の対象時代を唐以前に限定した。そこで第一章では『新修本草』を用い、唐代までの酒の効能認識・医療応用の傾向を確認したい。第二章では出土文献を用い、それらについて後漢以前を個々に検討していく。第三章では史書や古典籍を用い、より早い時代について考察し、発想を探る。

 なお今回研究対象とする酒には、諸文献にみえる「苦酒」「醋酒」など酢の類は含まない。また第二章で使用する出土文献は台湾中央研究院文物図象研究室、第三章で使用する古典籍全般は故宮文献全文検索資料庫が公開しているデータベースを使用し、「酒」の字を検索し、利用した[1]。本稿で使用した漢字は、一律に常用漢字・人名漢字のJISコード文字を用い、それらにない字は正字に改め、また文献・論文の著者の敬称は省略した。

第一章 本草書とは

1 酒の認識

唐代までの酒がどのようなものであり、人々にどのように認識されていたかを、唐政府が659年に編纂した『新修本草』を用いて確認したい[2]。

『新修本草』(巻19)
酒、味苦、甘、辛、大熱、有毒。主行薬勢、殺百邪悪毒気(以上、『名医別録』文)。大寒凝海、惟酒不冰、明其熱性独冠群物。薬家多須、以行其勢。人飲之、使体幣神昏、是其有毒故也。昔三人晨行触霧、一人健、一人病、一人死。健者飲酒、病者食粥、死者空腹、此酒勢辟悪、勝於食(以上、陶弘景注文)。〔謹案〕酒、有蒲桃、{禾+朮}、黍、{禾+亢}、粟、{麥+曲}、蜜等、作酒醴以{麥+曲}為。而蒲桃、蜜等、独不用{麥+曲}。飲蒲桃酒、能消痰破{さんずい+辟}。諸酒醇{酉+(璃-王)}不同、惟米酒入薬用(以上、『新修本草』注文)。 
 酒の味は苦、甘、辛で、大いに体を温め、毒がある。薬の勢いを体中に巡らせ、様々な邪な気や悪毒の気を消す(以上、『名医別録』文)。
 大変寒くて海が凍るときでも、酒だけは凍らない。(このことからも)その熱性がすべてのもので最も強いことが明らかである。薬を使う人の多くはみな、その熱性によって薬の勢いを体内に巡らせる。人が酒を飲むと、体を疲弊させ、意識を朦朧とさせるのは、その毒のためである。むかし三人の人が早朝に歩いていて霧に遭い、一人は健康なまま、一人は病気になり、一人は死んでしまった。健康だった人は酒を飲み、病気になった人は粥を食べ、死んだ人は空腹だったためである。酒の勢いは悪気を除き、食事に勝っていることがわかる(以上、陶弘景注文)。
 酒(の原料)には、ブドウ、コウリャン、キビ、ウルチ米、アワ、コウジ、ミツなどがある。酒醴を作るには麹を使わなければならない。ただし葡萄と蜜で作る場合、麹は使わない。葡萄酒を飲むと体内の粘液が消え、しこりが消える。様々な酒には濃い、薄いの違いがあるが、穀類で作ったものだけを薬に用いる(以上、『新修本草』注文)。
 3~5世紀の『名医別録』には、酒の作用の基本的特徴が書かれている。これらが酒を医療に応用する上で基礎となるといえるだろう。
500年頃の「陶弘景注」には酒の熱性について書かれている。薬勢を強めるのは酒の熱性によるものだとわかる。また、粥=穀類に比べて酒は栄養があると書かれており、酒は栄養価の高い食品として扱われていたようだ。

 『新修本草』には酒の原料として7種挙げられている。穀物を原料にして造った酒だけが医療には使われていたらしい。葡萄は『神農本草経』から項目があり、「葡萄酒」を造ることが記載されている。葡萄酒が中国に普及したのは唐の時代とされているため、それ以前に葡萄酒の薬用記録は少ない。

2 本草における酒の医療応用

 では、酒が薬物としてどのように認識・利用されてきたかを見るために、とりあえず時代を唐代までとし、唐政府により編纂された『新修本草』を資料に検討してみたい。

 『新修本草』には70品について、78の酒の医療的利用法が書かれていた[3]。そのうち、酒で薬物を飲み下す:24、薬物を酒で煮る・漬けるなどして服用する:35、薬物の煮汁で酒を造って服用する:16、患部に塗る:2、口を漱ぐ:1であった。酒はもともと飲み物であるため、服用が多いのは自然な結果である。

 服用する際の処理法としては、(酒に薬物を)漬ける:20、和す・合す:7、煮る:5、煉る:2、浸す:1であった。処理法の40%が「漬ける」であり、これは薬物の成分を抽出するという考えに類する発想があったためかと思われる。また、酒を服用した際の効果・作用によって処理法に傾向が表れることはなかった。処理法に関しては薬物に合わせて選ばれている感が強い。

 酒を利用して薬物を服用した際の効果・作用が記されていた薬物は44品、49の利用法であった[4]。病名に「風」がつくものが多く、49処方のうち15処方(30.6%)には「風」のついた病気への作用がみられた。49のうち、皮膚病が11種(49処方に対して22.4%)、痺・痙などが8種(16.3%)、脚弱・腰痛など四肢に関わるものが5種(10.5%)であった。ほか、風冷・風熱を除く、血脈を利す、金瘡、婦人病、淋病、心腹痛を治すといった作用があった。

 体に塗る際の処理法は、漬ける:1、浸す:1であり、顔に塗って肌を白くする:1、脚に塗って脚の病を治す:1であった。どちらも体の内側に働きかけるようである。

 口を漱ぐ際は、酒で薬物を煮、その煮汁で口を漱ぎ、歯痛を治すというものであった。

 また、「紫石英」の項に、「(紫石英は)太山で取れるものが最もよく、他の場所で採取したものは丸薬にし、酒で飲むとよい」とある[5]。他の場所で取れたものは薬勢が弱いため、酒で飲み下すことにより、薬の勢いを強めよ、とある。名産地として名を知れた場所で収穫されたものと同等の力を引き出すのであれば、酒の「薬の勢いを強める力」は相当のものであろう。

3 小結

 以上をまとめると、唐代『新修本草』までの認識としては、酒は大いに熱をもち、その熱性により、体を温め、薬の勢いを強め、邪気や毒気を除く作用を持ち、栄養価も高い。

 酒が使用される病は、風邪が原因になるものが多く、症状としては皮膚病や体の痺れ、引きつけなどが多いと考えられる。また、酒は外傷・内部疾患に関わりなく服用するのが一般的であり、塗り薬や洗浄薬として利用されるのはごくまれである。薬の勢いを強める力は高く評価されていたようだ。

***

ここまでで1章です。読んで下さり、ありがとうございました。

続きはまた明日。

注と文献

[1]出土文献は、インターネット上の台湾・中央研究院の「文物図象研究室資料庫」(http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/ww.htm)で、中国古典籍は「台北故宮『寒泉』古典文献全文検索資料庫」(http://210.69.170.100/s25/index.htm)で字句等を検索した。

[2]『新修本草』巻19、武田長兵衛影印、大阪・本草図書刊行会(1936)。

[3]『新修本草』で病の治療に酒が利用されていたのは、全70薬物について計78の記述が見いだされた。以下に各薬物名(記述数)を所出順に列挙する。石鍾乳(1)、金屑(1)、水銀(1)、孔公{艸+自+辛+子}(1)、理石(1)、鉄精(1)、石床(1)、石花(1)、錫銅鏡鼻(1)、銅弩牙(1)、金牙(1)、石灰(1)、赤銅屑(1)、黄精(1)、乾地黄(1)、石斛(1)、{艸+免}絲子(2)、忍冬(1)、丹参(1)、営実(1)、白花藤(1)、苦参(1)、{台+木}耳実(1)、地楡(1)、白前(1)、百部(1)、垣衣(1)、百脈根(1)、{艸+亭}{艸+歴}(1)、{艸+(勸-力)}菌(1)、虎杖根(1)、{艸+(勸-力)}{艸+朔}(1)、弓弩弦(1)、敗天公(1)、松脂(2)、柏実(1)、五加(1)、槐実(1)、毎始王木(1)、折傷木(1)、鼠李(1)、蔓椒(1)、白楊樹皮(1)、柳華(1)、蘇方木(1)、木天蓼(1)、熊脂(1)、羚羊角(1)、牛角{角+思}(1)、鹿茸(2)、免頭骨(1)、麋脂(2)、{鼠+晏}鼠(2)、猯膏(1)、丹雄鶏(1)、鷓鴣鳥(1)、鷹屎白(1)、雀卵(1)、鴟頭(1)、蜂子(1)、亀甲(1)、伏翼(1)、{けものへん+胃}皮(2)、露蜂房(2)、蝮蛇胆(1)、{魚+(陵-こざとへん)}鯉甲(1)、蓼実(1)、麻{艸+賁}(1)、{豆+支}(2)、腐婢(1)。

[4]酒を使って服用したときの効能が、全44薬物について計49の記述が見いだされた。以下に各薬物名(記述数)を所出順に列挙する。石鍾乳(1)、金屑(1)、水銀(1)、孔公{艸+自+辛+子}(1)、理石(1)、鉄精(1)、石花(1)、石灰(1)、赤銅屑(1)、石斛(1)、{艸+免}絲子(2)、忍冬(1)、丹参(1)、白花藤(1)、苦参(1)、{台+木}耳子(1)、地楡(1)、白前(1)、百部根(1)、垣衣(1)、虎杖根(1)、{艸+(勸-力)}{艸+朔}(1)、松脂(2)、柏実(1)、五加(1)、槐実(1)、鼠李(1)、木天蓼(1)、熊脂(1)、羚羊角(2)、免頭骨(1)、麋脂(1)、{鼠+晏}鼠(2)、鷹屎白(1)、亀甲(1)、伏翼(1)、{けものへん+胃}皮(1)、露蜂房(2)、蝮蛇胆(1)、{魚+(陵-こざとへん)}鯉甲(1)、蓼実(1)、麻{艸+賁}(1)、{豆+支}(1)、腐婢(1)。

[5]唐蘇敬等撰・尚志鉤輯校『唐・新修本草』安徽科学技術出版社(1981)99頁「紫石英」の項に、「惟太山最勝、余処者、可作丸酒餌」とある。

[6]『馬王堆古医書考釈』(馬継興著、張碧金・王一方責任編輯、長沙・湖南科学技術出版社、1992)の8頁に、「可知其墓葬的準確年代為公元前168年、即漢文帝初元十二年」とある。よって、紀元前2世紀以前の記載と思われる。

[7]馬王堆漢墓帛書整理小組『馬王堆漢墓帛書(肆)』北京・文物出版社(1985)25-81頁。酒に関する記載は、「諸病」部の26-27・29頁、「傷痙」部の30-31頁、「犬筮(噬)人傷者」部の34頁、「毒鳥{立+豕}(喙)者」部の35頁、「{虫+元}」部の37・39頁、「白処方」部の41-42頁、「【□{虫+(勸-力)}者】」部の43頁、「【人】病馬不間(癇)」部の44-48頁、「{禿+貴}({やまいだれ+禿+貴})」部の50・52頁、「【脈】者」部の53頁、「【牡】痔」部の56頁、「雎(疽)」部の57-59頁、「闌(爛)」部の61頁、「加(痂)」部の64頁、「乾騒({やまいだれ+蚤})方」部の70-71頁、「□蠱者」部の73-74頁にある。なお、残片は除いた。

[8]前掲注[7]所引文献、99-119頁。酒に関する記載は、「加」部の100頁、「為醪勺(酌)」部の101頁、「為醪勺【治】」部の101-102頁に2箇所、「【麦】卵」部の102頁、「【除中益気】」部の110頁、「【治力】」部の113頁に2箇所、「【醪利中】」部の114頁に2箇所、「【走】」部の115頁の計10箇所がある。

[9]前掲注[7]所引文献、123-129頁。酒に関する記載は、「益内利中」126-127頁に1箇所がある。

[10]前掲注[7]所引文献、133-141頁。酒に関する記載は、「懐子者」部の138頁、「求子之道曰」部の139頁の計2箇所がある。

[11]前掲注[7]所引文献、145-152頁。酒に関する記載は、「【・】黄帝問於容成」部の146-147頁に1箇所、「文執(摯)見斉威王」部150-151頁に1箇所(4文字)の計2箇所がある。

[12]前掲注[7]所引文献、159頁に酒に関する記載が1箇所ある。

[13]『武威漢代医簡』(甘粛省博物館・武威県文化館編、北京・文物出版社、1975)の「武威漢代医簡{(墓-土)+手}本釈文注釈」23頁に、「根据上述有関墓室、殉葬品和銭匝的特征、初歩灘坡墓的年代当属東漢早期」とある。

[14]「馬王堆医書」の和訳は『新発現中国科学史資料の研究釈注篇』(山田慶兒編、京都・京都大学人文科学研究所、1985)、『武威漢代医簡』の和訳は「武威漢代医簡について」(赤堀昭、東方学報、1978)に依拠する。

[15]前掲注[7]所引文献、145-152頁。酒に関する記載は、「【・】黄帝問於容成」部の146-147頁に1箇所、「文執(摯)見斉威王」部150-151頁に1箇所(4文字)の計2箇所がある。


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