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カレン・ラッセル《エリック・ミューティスの墓なし人形》 〜誰にも届けられることのないこの小さな声を、ライ麦畑で誰がどう、守るのか

『レモン畑の吸血鬼』ラストの作品はティーンエイジャーの不良グループの話である。公園で、彼らはかかしを見つける。かかしというモチーフの印象から小学生くらいかと一瞬思ったが、中学生の頃が回想として出てくるので、それより少し上。高校生くらいだろうか。

ラリーの視点からの明晰な文体の語りの中、ストーリーや感情の主軸とは少し焦点をずらしたようにさりげなく、彼らの生活圏や家庭環境の描写が挟まれる。社会の中ですでに区分けされている立場である現実がちらつき、重なっていく。主人公のラリー・ルービオは、自分の苗字が発音できない。母も発音できないが、苗字を母方に揃えさせることはしない。父は、いない。慕う間もなくとっくにいなくなっていて、ラリーはそれを受け入れているのだが。

貧しい暮らしがちらつく。進学の気配はない。どこかみな似たような、似ていなくても何かが分かち合えるような境遇で、すこぶるドライに彼らはつるんでいる。彼らは語り合いではなく行動を共にすることで仲間となっている。夜には封鎖され立ち入りが違反となるので人気のなくなる場所、ニュージャージーの半端な都会の中にあるフレンドシップパークと呼ばれる自然公園を、幼い頃から基地として。学校や警察、家庭、地域、コンクリートに囲まれた彼らの生活圏は狭い。手の届く範囲がそのまま世界の全てであるような、つまり、彼らは子供だ。

子供は、いじめをする。いやいじめという言葉は使わない方がいいだろう。校内で集団で犯罪を行う。同級生をターゲットに暴力を振るう。持ち物を繰り返し盗み、壊す。自分たちが殴ったことにより身動きをしなくなった被害者から立ちのぼる静寂。自分が息をするためにこの静寂がどうしても必要で、発散行為として犯罪を繰り返していたと振り返る。ほんとうは。大人に止めて欲しかった、社会の型の中にあるそちら側の未来へ連れて行ってくれる誰かがいるべきだった、でもその役割の人はいなかった。少しだけ過去の、自らが加害者として行なっていた事実を述べる語りに、感傷はない。

回想として思い出したのは、見つけたかかしが、似ていたからだ。エリック・ミューティスに。血が出るほど何度も殴っていた。殴っていただけではない、ひょんなことから一瞬心の通う思い出もあった。そのことは仲間も知らない。いつのまに転校したのか、誰からも惜しまれることなくいなくなったエリック。教師からも疎まれ、人望など全くなく、ひたすら攻撃欲を刺激してくるようなところのある、まっとうにコミュニケーションを取る気も起きないような、ただそこにいるだけで目障りな気配を纏う生徒。

ラリーとエリックとの間に起きた、ふたりの秘密の描写がひどくよい。学校という場ではなく、エリックの家での。エリックの人柄。エリックの秘密。エリックという存在がラリーの目と心を通して、読んでいる私たちに共有される。

優しいのだ。ラリーもエリックも。彼らは人間で、まだ子供で未熟で、悪いことをするが分別があり、それぞれの事情と心があり、命を、他者を思う力を持っている。

ラリーがラストに行うこと。いままでのすべての語り、読んで得てきた事実がこの一点に結集して、泣いてしまう。ラリーは自分にできることを自分で探して、できる限り、他者を守ってやろうとする。その行動が何かの役にたつわけではない。だがラリーにとっては自分の償いのためにも必要なことで、あまりに真摯なその行動は、今この時だけでなく自身の未来においてまでもなされ続ける、身体を張った約束、信念だ。ライ麦畑の見張り番よりずっと近くで、彼は守る。小屋には住まず、かかしとして立つことで守る。守られることなく落ちていった、すでにいなくなってしまった子供の、発せられることのなかった声。誰かが拾い耳をすますべきなのに誰にも語られていない声、それをラリーは自分の声と同じように、知っているからだ。

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