”actor”【ショートショート・820字】
「先にお飲み物お伺いしましょうか?」
「このスパークリングワインを二つ。ああ、彼女の方は、少し飲みやすくしてくれないか」
「当店自家製の、桃のピューレを混ぜるのはいかがでしょう?」
「それでいいかな?」
「はい! 私、桃大好きです」
私は微笑んで二人のテーブルを後にする。ここは私の夫が腕を振るう、小さなビストロ。私はここで、物わかりのいい従順な妻を演じている。彼がこの店の扉を開けた時も、表面上の私はそれを忘れなかった。
「カナコさん、彼女は僕の婚約者なんです」
彼は私に向かって、そう言った。いつか私に、たくさんの甘い言葉を囁いたその口で。そう、あれはただの言葉でしかなかった。嘘とか本当とか、そういうのじゃない。
かわいい、お嬢さん、ね。心の中で告げる私の言葉、それもただの言葉。知らん顔でこんな状況を作るなんて、卑怯じゃない? 小さなビストロのおかみは、そんなことを考えたりはしない。だからそれは、ただの言葉。”カナコ”はそう、自分に言い聞かせている。
スパークリングワインとピーチベリーニをそっと二人のテーブルに置き、「お決まりの頃、またお伺いします」と微笑んで告げる。店の壁際に下がり、二人をさりげなく見守る。
嫌だ。こんな感情は嫌。夫を愛しているのに、もう一人を欲しいと思うなんて。私は”カナコ”が許せない。この貪欲で醜い想いは、どこから生まれてくるの? 苦しい。苦しくて息が出来なくて、早くこの水槽から出して、と願う。
それでも。私は理解してしまう。”カナコ”の存在を、許している。だって、何故なら、私は……。
注文が決まった合図に、彼が軽く手を挙げた。もうすぐ、抜け出せる。私の次の台詞で、この場面はカット。このやり場のない想いから抜け出して、息をさせて。”カナコ”としてまた再び、この水槽に戻る前に。
私は二人のテーブルの脇に立ち、貼り付けたままの控えめな笑顔を彼に向け、尋ねた。
「ご注文はいかがなさいますか?」
了【2022.7.18.】
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