もし自分が死刑に反対するとしたら

まず最初に、自分は死刑に反対でも賛成でもない。しかしいまだに日本で死刑が実行されているからには、それなりの根拠があるのだろうと思っている。そしてこのことについて考えるのに、被害者感情というのは最も無視できないものと思っている。しかし被害者やその家族の気持ちを想像してもしきれないため、結局のところ死刑は存続すべきかそうでないかわからない。そういう立場である。

ただ、もし自分が死刑に反対するとしたらこういう理由で、というのはある。オウムの件もあり、ちょっとまとめたくなったので書いてみる。

歪みの集中(結論)

結論から言うと、社会的な歪みや、DNAなど先天的な要因のアンバランスが集中した人が犯罪を犯したり、社会に適応できなかったりするのではないかと思っている。最近の様々な事件を見ていてそう感じることが多い。もし自分が死刑に反対するとしたら、これが一番の理由になると思う。

俯瞰すると、個々の人間は全体の一部でしかない。小さな部分でしかない。しかしその小さな部分に、社会の歪みや、DNAの交配の繰り返しによって生じた偏り、アンバランス、歪みが集中する場合がある。それはある種の不運だと思う。その歪みに耐えきれなくなったとき、他者を傷付けたり、自分を傷つけたりするのではないか。最近、いろんなニュースを見るたび、ほぼ確信的にそう思う。

それって、個人の意志よりも社会全体の責任のほうがはるかに大きいのではないか。なのに不運にも歪みの集中を背負ってしまった個人のみが重い罰を課せられるのは正当なことなんだろうか。

だけど、いつもそんなふうに俯瞰できるほど自分は人間ができてないし、多くの人もそうだと思う。全く別の考え方もあるだろう。何か被害を被ったら、目の前の加害者を全力で憎むだろう。ましてや凶悪な犯罪に巻き込まれたとき、自分がどんな心境に置かれるか想像もできない。なのでその是非については保留せざるを得ない。

先天的な要因と後天的な要因

世間の目を引く凶悪犯の背景を見ると、生育環境に恵まれなかっというパターンも多い。また、生育環境だけでなく、社会環境の歪みの影響ではと思うケースもあり、そういう例は世間からある種の同情を買うことも多い。

先日のはてはブロガーが殺害された件でも、容疑者がロスジェネであることと、学歴に見合わない半生を歩んでいたという点で、一定の憐れみを表明するようなコメントも多く見られた。(ロスジェネ自体を社会の歪みと評価するかは意見が分かれそうだけど。)

ともかく、親とか社会とか、後天的な歪みが集中してしまった人が犯罪を犯すことは多いと感じられる。

一方、同情の余地のない、こいつクズだなとしか思えない非道な凶悪犯もいる。そんな人たちも生育環境が関係している場合もあるけど、完全に本人の資質が問題だろうというケースもある。本人の資質、これはほとんどがDNA等の先天的な要因ではないかと自分は考える。

後天的な要因と先天的な要因、その両方か片方かの歪みが一人に集中したとき、その人は社会不適合者となる。

外に向くか内に向くか

そんなふうに歪みを背負っても、罪を犯さない人だって多い。なので罪を犯すか犯さないかはは本人の意志の問題だとの指摘もあると思う。だけど、外に害を及ぼさない人は、自分を傷つけている場合もある。自分の心や体を害しているケース。ストレスや不満を内に溜め込むことによって、取り返しがつかないほど心身の不調を引き起こしている人。過労で心を病んで自死した人のニュースだっていくつも目にする。

つまり、その歪みへの反発が、外に向かうか内に向かうかの違いでしかないのではないかと。

歪みの解放ができるか、溜め込むか

様々な歪みのしわ寄せが集中しても、上手くいなせる人だっているかもしれない。好きなことに意識を向けることで、他者や自分を傷つける前に発散させることができる人。人と交わることで気持ちの切り替えができる人。しかしそんな人は、そもそもそんな資質に恵まれてたとも思えるし、人や好きなものに巡り会える運があったのかもしれない。そんな人に歪みが集中し、爆発するまで溜め込まれ続けることはないだろう。

運やタイミング

負の歪みが集中したとしても、転落を踏みとどまらせる出会いがあれば、その人は罪を犯さずに済むかもしれない。たとえば心のケアをしてくれる恩師とか、作品とか。だけど、そんな出会いがあるかどうかも運でしかない。何かのタイミングが、その人を罪人にするか否かを分ける場合もある。

本人の意志とは

先天的な要因、後天的な要因、それに運やタイミング。それら全体の中で、本人の意志が占める割合はどれだけのものだろうか。かなり小さな面積ではないかと思える。そしてその意志さえ、他の要因と不可分ではないかとも思える。

悪ではなく不良

そんなふうに考えていくと、罪を犯す人というのは、“悪”ではなく、“不良”ではないかと思えてくる。グレた学生という意味とは違うニュアンスの、不良品の不良。工場の中で大量生産される部品の中に、数パーセントの割合で生じる不良品。そうなりたくてなったわけではない。不運にも不良として存在してしまったもの。それは隔離され、処分される。
だけど人間の場合はモノのように簡単にはいかない。どんな人にも人権がある。

「罪は悪」は詭弁か

人には人権があるから、モノのように簡単に隔離して処分するわけにはいかない。そこで「悪」という概念が登場するのかもしれない。人権はある。だけど「悪」だから隔離し、処刑する。そう理屈づければ、人間の感情としては納得する部分も大きい。人権を侵すための詭弁として、「悪」という概念が持ち出されているのかも。あくまでも仮定だけど、そんなふうにも考えられる。

だけどその詭弁を剥がした後に残る本質は、今までもこれからも、不運にも不良品として存在してしまった存在の処分でしかないのかもしれない。社会と不適合を起こし、不適合だけでなくエラーも引き起こす問題の部品。この時この場所に存在する社会との互換性に欠けた仕様の創造物。それを都合よく処分してしまおうという。

詭弁と言ったけど、人権意識が進んでる今だからその可能性に気づけるわけで、そうじゃない時代はそれに気づくはずもなく、誰もがそれを正義だと思ってやっていたんだと思う。今現在だって、人権と、正義による悪の裁きが両立すると考えられているからこういうシステムが継続されてるんだろう。だけどこのまま人権意識が進んでいくと、両立するはずのものがしなくなる可能性も大きいんじゃないかって気がしている。

というような思考の流れで、死刑を否定する理由が自分の中に浮かび上がった。

被害者感情

そんなふうに、死刑を否定する理由が浮かび上がったからと言って、死刑に反対だと言い切れるかというと、ぜんぜんそんなことはない。一番の理由は冒頭にも書いたけど、被害者感情だ。

自分が巻き込まれたとき、彼は歪みが集中した不運な人間なだけだ、なんてメタ的な視点で見れるなんて全然思わない。全力で相手を憎むと思う。普段だって、この話からすると遥かにささやかなことで根に持ったりしている。

ましてや、凶悪な犯罪に巻き込まれたとき、自分がどう思うかなんて想像もできない。オウムの事件に巻き込まれた被害者とその家族や、北朝鮮に拉致された我が子が生きてるか死んでるかわからないまま何十年も過ごす家族の気持ちはどんなだろうと思うことがあるけど、想像もつかない。もちろん被害者に非がある場合も多いけど、不条理や不運としか言いようがない。

冷静なときは上から俯瞰してかっこよさげなことも言えるけど、何かの当事者となって感情的になったとき、そんな余裕を持てるだろうか。誰もが冷静なときとそうでないときの2つの視点を行き来していると思う。

ともかく、この議論において最も尊重されるべきは被害者感情だと自分は思っているので、それがわからない限り、自分には結論が出しようがない。

代案

もしその被害者感情の部分を埋めるに充分な代案が見つかったら、自分も死刑廃止に傾くかもしれない。だけどその代案も、被害者やその家族に丁寧にヒアリングする以外に見出しようがないんじゃないだろうか。

ただ、死刑の代案は思いつかなくても、死刑判決がくだるような不幸な事件を減らすにはどうしたらいいかということなら少しは考えられるかもしれない。(これは最後のほうに書くかも。)

時代遅れの根拠

死刑に反対する理由があっても、もしかしたら自分にはわからない確固とした根拠があるために死刑が存続している可能性はある。しかしその確固とした根拠と思われてるものが、時代遅れとなっている可能性だってある。

たとえば、駅にホームドアが設置され始めるまでの長い間、多くの人はその必要性に気づかずに過ごしていた。だけど今となっては、なんで今まで気づかなかったんだろう?設置しなかったんだろうとさえ思う。それは社会が発達するに連れて、人の中の安全意識に変化が生じたからだと思う。

とんねるずの石橋が演じる保毛尾田保毛男を見て、多くの人が疑いを持つことなく笑っていたあの時代から30年ほど経った今、多くの人がそこに人権的な問題が潜んでいることに気づく。

人権意識、安全意識、ほかにもあるかもしれないけど、人々は社会の成熟につれ、意識の中に今まで見出されなかった新たな解釈、そうあるべきであったのに見つけられることのなかった何かを段階的に開拓する。

そうだとすると、今まで死刑の根拠とされていたものだって危うい。その解釈は、新たなものへと変化していく可能性があるからだ。

だけど自分は死刑の全てを知っているわけでもなく、根拠が必ずしも揺らいでいるとも断定できない。だからやはり、死刑の是非については今は保留するしかない。

歪み以外の要因

ここまで書いてきて、自分の考え方にそれなりの信憑性があるのかあらためて確認するために、死刑判決の事件をいろいろ読んでみた。確かに生い立ちが不幸な人が多いけど、生い立ちも本人の気質もさほど問題なさそうな死刑囚もいる。
「ここでこの出会いがなければ、善良な一市民として暮らしてただろう」
と思える人。不運な出会いさえなければ、殺人など犯すことのなかったであろうごく普通の人。
被害者を恨み、復讐のために罪を犯すケースや、オウムの弟子たちのように、洗脳され、正義と信じて法を犯すケースもそれに当たるかもしれない。

不幸な巡り合わせによって、善良なごく普通の人と思われる人が犯罪者になる。被害者よりも加害者につい肩入れしたくなる事件だってある(あくまでも文章化されている部分でしか判断できないけど)。

今まで書いてきた“歪みの集中”だけでなく、この“不運な巡り合わせ”による犯罪についても知り、改めて、罪とは人ひとりの責任とは言い難いのではないかと思えた。

むしろ不運な巡り合わせによる犯罪のほうが、本人には避け難いものではと思えたりもする。

代案ではない代案

歪みの集中とかアンバランスとかといった言葉を使ってきたけど、それを簡単に言い換えるとハンデということになるのかもしれない。

社会または技術的な進歩がそういうハンデを軽減できる仕組みになれば、不幸な事件も減らすことができるのではという期待をしている。

ハンデの数だけ具体策が必要だし、コストもすごくかかると思うけど、もしそういった見えづらいハンデひとつひとつの存在が社会の共通認識になるだけでも、何か期待できるかもしれない。

「障害は、社会のほうにあって個人のほうにあるのではない」という言葉を、たしかはてブで見た。自分にとっては目からウロコだったけど、今回言ってきた「社会の歪み」も、この「障害」と同じようなの意味があるのかもしれない。

そもそも死刑に反対しているわけでもないし、死刑の代案が出せるわけでもないけど、そっち方面のことなら今後も何か良い案ないか考えていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?