1. 無機質な白い通路 - 代替日本

都心の一等地、2年前に完成した高層ビルにそのクリニックはある。52階建ての46階。壁もドアも白い無機質な材質でできている。光沢はあるが、金属のそれではない。見たことのない材質でできた白い通路。覚香はそこを歩いていた。

自分はなぜこんなところにいるのだろう。これまではPCと機材と配線と埃にまみれた部屋で歩と暮らしていた。互いに気ままに好きなことをして、それを多少のお金に変えて、生活している。眠ければ眠り、空腹なら適当に食べ、そんな毎日以外に、とくに望むものはなかった。このままの生活が果てしなく続くと思っていた。

「子供が欲しいね」
歩はそう言った。
「子供?なんで?」
覚香にはまったくピンとこない話だった。
子供はかわいいだから欲しいと世間では(主に女性たちが)さも当たり前のように言うけれど、果たしてそれは本当なのだろうか?

可愛さで言えば、柴犬や子猫のほうがよっぽどかわいい。その上、膨大なコストとリソースをつぎ込んで、少なくとも20年は面倒を見なくてはいけない。そんなこと、本当に世間のカップルは望んでいるのだろうか。

「なんでって、普通のことじゃない?子供が欲しいって」
普通のことなのか。子供がかわいい、欲しい。人々が口にするあれは世間へ向けてのポーズではなかったのか?「できれば3人は欲しいです」子供の頃に見た、まばゆいフラッシュの中で放たれたあのセリフは、ただのお約束ではなかったのだ。少なくとも歩は本心で子供を望んでいるらしい。

その事実を知った驚きと同時に、覚香はかすかな苛立ちを覚えた。

子供を生んだら、その子に対する80年の責任と心配事を請け負わねばならない。そしてその子は、私と同じようにままならない社会生活を強いられ、私と同じように思春期の苦しみを味わわねばならないのだ。そんな双方にとっての苦痛を、なぜわざわざ生み出さねばならないのだ? なんて無責任なのだ。

そんなたいそうな問題以前に、もっと身近な問題がある。自分に赤子の面倒を見るなんてことが、どう考えてもできそうにない。まだこの部屋でやりたいことがある。そのやりたいことで手一杯だ。無限に時間は足りない。夜中に起きてミルクを飲ませて、病院に連れて行ってなどという余裕(時間的にも心的にも)は、どう考えてもない。その上、公園に連れて行ってはママ友?公園デビュー?などとこの上ない面倒ごとに巻き込まれなくてはならない。社会生活。それは自分が最も避けなければならない問題だ。

しかし一部の人は、旧来通り結婚後に子供を望む。なぜなのだろう。

「子供ができたら、緑地公園を3人で散歩するんだ。そして、もう少し大きくなったら一緒にゲームしたり、プログラムやグラフィックソフトの使い方を教えてあげたり・・・、楽しそうでしょ?」

障害がある子が生まれたら? 無事生まれても、その子が成人するまで、いや一生、何かのトラブルに悩まされることになるのは?そういったことは彼の視界にはないのだろうか。

熱を出しては仕事を放って通院し、子供のために他のママさんたちと笑顔の牽制をし合い、健全な生育環境のためにこの電子機器と配線とホコリだらけの部屋に革命をもたらさなければならない。この作業部屋を、ソファやテレビやローテーブルが並ぶ退屈であたたかいリビング? とやらに作り変えなければならない。ああ私にはムリ。できる気がしない。

そんな不安と不満を一式、歩の前に陳列してみせた。彼はろくに見もせず、柔らかな微笑みでこう言った。
「大丈夫、できるよ」「僕たちの子なら、どんなことがあっても乗り越えられるよ」

彼がそう言うんならそうなんだろう、皮肉ではなく、覚香はそう思った。大体において、自分の判断より歩の動物的選択のほうが的を射ている。覚香は今までの経験上、歩の選択をかなりの割合で信頼していた。思考を経ない、無意識的な選択を。覚香はそのやり方すら忘れてしまった。考えすぎないと歩めない人生だった。何が自分の直感なのすらわからやくなった。一方彼はこの歳になるまで(たしか29歳)直感というものをすぐ手の届くところに置いたまま生きてこれたのだろう。覚香は歩を羨ましく思った。

私にとってこの世界は、ことごとく仕様の合わない世界だった。何かがうまくいかない。そのため、逐一考えて行動する必要があった。考えずに行動すると失敗する。そして考えて行動しても失敗する。たとえそれが、病院の待ち合いで自分の患者番号を呼ばれるのを待つという単純な作業であっても。

他の患者は、感覚的に行動し、滞りなく診察室へ吸い込まれていく。
しかし覚香が他の人たちのように無造作に立ち上がると、腕に掛けやすく折りたたんだはずのコートは、すでにひっくり返ってバラバラになっている。なぜ他の人たちは、即座にスマートにコートを腕にかけ、診察室へ向かうことが可能なのだろうか。

慎重にコートの状況を確認し、鞄の持ち手をつかみ、立ち上がった拍子に何か落としてないか、椅子の上に何か忘れてないか、ひとつひとつをチェックする。診察室に向かうまで、それだけの工程を意識的に経ないと、粗相なく診察室へ向かうことができない。いや、それでも何かミスを犯すことがある。

逐一考えて行動をとらないといけない。そんな日常の些細なことに関してでもこの有様だ。そして考えて考えて、それでもその上に失敗を積み重ねるうちに、「直感」などというものは、それらの下敷きになり、今やどこにあるのかさえわからなかった。

考えることに時間を費やし、失敗し、処理されるべきタスクはどんどん溜まっていく。それらはデッドロックを起こし、覚香は身動きが取れなくなる。そんなときは悶々と布団の上で、ただ悶々としているのだった。

スマホを手に取り、ダラダラと目的もなくアプリを開いては閉じ、また開いては、なんとなくTwitterを眺めていた。

トレンド欄にある映画監督の名前があった。どうやら有名な賞を取ったらしい。

その映画は、発話障害のある女性が、人型の水棲生物と恋に落ちる話だった。何気に予告編を見てしまった。彼の存在は国家機密レベルであり、研究対象ゆえにそこから解放されることはない。ガラスの水槽に囚われの身となっている人外の、ただただ側にいたいという、彼女の気持ちが伝わってくる予告編だった。どんなに近くても、ガラスと水が二人を隔てる。

覚香と歩の間にはいまや隔たりはない。緊迫もない。ただだらしない日常が漂っている。しかしかつては、そのガラスのように目に見えない壁が二人を隔てている頃があった。その予告編のヒロインを見て、その孤独と、壁と、壁に隔てられていた頃の気持ちを思い出した。恋愛映画を観るがらじゃないと言い訳しながら涙を流した。滞っていた心が流れ出した。そして思い出した。

いつも歩と過ごす日常、そしてそれなりに自分に合った仕事、これらを手に入れ、覚香は満ち足りていた。欠乏だらけの人生を送っているあいだは、その欠乏を補うことしか思い描けなかった。しかし今は欠乏の大方は補われている。覚香はこのままの毎日が永遠に続くことを望んでいた。安堵し、それ以上のことを思い描くことはできなかった。しかし私は望まねばならないのだ。欠乏を埋めてくれた相手のために。

ママ友、公園デビュー、いじめ、歳を取るごとに上がる先天性異常の確率、事故、誘拐、時間、お金、心の余裕、団体行動、社会生活……。そういった不安要素の下に埋もれて存在する“はず”の「子供が欲しい」という本能をひっぱり出し(もしなければ急ごしらえで作り上げ)、望まねばならないのだ、子供を。

それらの不安を払いのけるにはどうしたらいいか。あらゆるリスクを知った上でその壁を乗り越えるにはどうしたらいいか。
答えは3つあった。
ひとつは、考えるのをやめること。考えなければいいのだ。野良のメス猫。彼女たちのように。

2つ目は、覚香自信が自分と向き合うことが必要だった。そして、自分をこの世界に少しでも適応させることが必要だと考えた。適応できれば、自分とその子のリスクや不自由は減る。

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子供の頃から、自分は人並みに何かをこなすのができないということに、ぼんやり気づいていた。しかしそれを認めたくないために、なるべく“人並み”に擬態して生きてきた。

擬態の方法はこうだ。

普通の人間は、1、2、3と3ステップある工程を10秒でこなすとする。しかし覚香にはその工程をすべて通過するのに15秒かかってしまう。そこで工程2を飛ばして、さも同じスピードでこなせたように装う。つまりショートカットをする。体裁のために擬態するというより、実際そうしないと周りについていけないので、まだ物心がつく前から、その選択は必然かつ必須だった。

スピードだけでなく、他の子が普通にできることも、覚香には負荷がかかった。その負荷は、「面倒くさい」という言葉で認識された。時間をごまかすためか、面倒くさいためか、いずれにせよ工程2はスキップされた。

ショートカットし、独自の回路で物事をこなし続けると、普通の人がちゃんと通過する“2”の工程の経験が抜け落ち、それはどんどん独自の道筋で発達してしまう。それは覚香独自の“やり方”のため、他の人との隔たりが大きくなる。つまりいくらその場を、表面上は擬態してやり過ごしても、歪みはどんどん蓄積するのだ。その不自然な処理方法のためにさらに脳に負荷がかかっている感覚がある。処理の重いPCのように、いつもいっぱいいっぱいで余裕がない。そして他人と、世界と、どんどん互換を失っていく。3工程でワンセットの経験が、自分の中でいつまでも積み上げることができない。

覚香はそういったことを、いろんな具体例を交えて歩に説明した。時間をかけて。もっと言えば、自分がそうであったことに気づくのに時間がかかったし、それを正直に歩に知ってもらおうと思えるまでにも時間がかかった。そもそも、そんな内面的な経験を正確に伝えることは無理だろうとなかば諦めていた。しかしそれは必要だったし、幸い、歩のスキルをお金に変えることができたおかげで生活に余裕が生まれたため、そういったことを丁寧にときほぐし、整理する時間ができた。ふたりともPCを使った仕事をしているおかげで、自分を機械に例えたり、脳をOSやスペックで例えて伝えることが可能なのも助けとなった。

普通の人に標準装備されているセンサーが自分にはない。空気を読むセンサー。“適度”に達したことを知らせて中止命令を出すためのセンサー。その機能がないため、会話のタイミングや、作業のやめどきがわからない。そんな例え話もした。

歩はなるほどとすぐに理解してくれた。彼と自分ではスペックの差はあれど(そしてある部分ではすがすがしいほどにセンスがかみあわない部分もあったが)、ある部分で互換性が保たれているようだった。そういった抽象的な説明でも、わかってくれるのだ。覚香はそんな希少な出会いについてときどきあらためて考え、感謝をすることがある。

そして覚香は、“工程2”をちゃんと通過し、ちゃんと踏むべきステップを踏んだことを心の底から満足し、基礎を立て直し、自信を取り戻すことに取り組もうとした。時間の関係でやり残したことを取り戻し、自分を立て直そうとした。こんなグラグラの自分のままでは、まともな子育てなどできないのは目に見えていた。そしてこのことについても歩に時間をかけて説明した。歩は理解してくれた。

ところで、覚香はどうやって他人と自分の違い(つまり工程2を正しく通過するかどうか)について気づくことができたか。それは歩と長い時間を共にしているおかげだった。だだ一緒に暮らしているだけじゃなく、仕事も寝食も何もかも一緒だった。踏むべき工程を焦らず淡々と踏み、ひとつひとつ確実に積み上げる。仕事でも、生活でも、歩はいつもそうだった。

たとえばプログラムを書くときも、とりあえず動くことより、メンテナンス性や再利用のしやすさなどを重視していた。どこかから拾ってきたソースをでたらめにつなぎ合わせてでっち上げるようなことはしなかった。

歩が人一倍丁寧なだけかもしれない。他の人だっていろんな工程をすっ飛ばして、余裕なく急いで生きているのかもしれない。それでもやはり、自分が今まで取りこぼしてきたものは人よりも大きいと思えた。

ふたりは以上のようなことを、数年の間に話し合い、歩は覚香の内面の問題を理解した。パッと見ではわからない、本人にしかわからない内面の問題。それでも長い時間を共にする歩には、覚香の説明どおりのことが実際の覚香の言動から読み取れた。

自分を知り、自分をこの世界に適応させる。それはどう考えてもハードだった。そして自分の血を引くその子も同じ思いをするだろう。

覚香が歩に一通りのことを説明し終えたとき、歩は覚香にこう提案した。それが3つ目の答えとなった。
「この世界のほうを、君とその子に都合のいい世界に変えてしまったらいいんじゃない?」
「え?」
「だってこの世界に自分を合わせるなんてぜんぜん面白くないでしょ?こんな不完全な世界に」
覚香は言葉を返せずにいた。
「確かに君も不完全かもしれない。君と僕の間にいろんな差はあれ、それは僕だって同じだ。不完全な世界における不完全な個体。広い世界の中で、そんなの誤差でしかない」
「……」
「君や僕のような個体を変えるより、この不完全な世界、環境のほうを変えたほうが汎用性があるし、有意義だと思わない?どんな人とも適合性が高い柔軟な仕様に変える。楽しくない? モチベーション上がるでしょ?」

「私にはとても非現実的な話に聞こえる」
でも歩なら、自分よりずっと優秀と思える彼なら、できるかも知れない。
「できるかどうかは問題じゃない。1ミリでもそこに近づけようって、やってみることに意味がある、と僕は思う」
歩はキラキラして満足そうに微笑んでいた。
「ふたりで考えて、ふたりで形にしよう」

「自分というアルゴリズムで自分というアルゴリズムを変えるのは難しいけど、環境を変えて、そこからフィードバックを受け取り、自分のアルゴリズムに変化をもたらすことはできる」

「?」

「ほら、自分を変えるには、周りの環境を変えるのが手っ取り早いってあれ」

正直、歩の言っていることは全くピンとこなかった。しかし過去において、歩の言ったことはたいてい当たっていた。
なので否定せずに、そのまま自分の中で寝かせることにした。

世界のほうを変える。環境を変える……。
とりあえず、身近なとこからやってみた。食洗器や乾燥機など、便利な道具を買ってみたり、不器用な自分でも生活しやすいよう、部屋のレイアウトを考え直したり。
ああ自分は、こういった工程も置き去りにしてきたなぁと気づいた。これらも工程2だったのかもしれない。
生理前にメンタルが不調に陥ることさえ、見過ごして過ごしてきた(この問題にぶち当たるまでは、女子同士で生理の話をするのさえ不快だった)。

しかし今では、そういったことも歩に伝えたり、細やかな不満も溜めずに吐き出すよう心がけることで、自分の居心地というものを整えようとした。今までは「〜でなけらばならない」というような思考を優先させてきたが、今後は感情や自分本位さを優先するようにした。

自分のために環境を整える。それすらできないくらい、発想することすらできないくらい、いっぱいいっぱいだった。歩と出会うまで。

私一人では何もできそうにない。でも歩となら……。
「ふたりで考えて、ふたりで形にしよう」
歩はあのとき、“ふたり”を強調した。君と僕は対等だと励ます意味でなのかも知れない。
「その子にとって、居心地のいい世界を作ってあげよう」
そんなことも言っていた。
正直言って、自分には形にするスキルはないかも知れない。でも、形に落とし込む直前までは、真剣に考える努力はできそうな気がした。

それに、子供を持つこと(他でもなく自分が!)自体がそもそも非現実的である(その非現実の度合いは、後々覚香の体の検査結果が証明した)。どうせ非現実的な挑戦なら、楽しんだほうがいいじゃないか。「〜でなけらばならない」の中で生きてきた自分はもう手放してやるのだ。

コツコツと、自分の靴音が白い通路に響く。ビルの男子トイレから出てきた歩がニコニコしながら小走りで追いついてきた。
二人は突き当りの壁の「メナンダクリニック」のロゴの前で少し立ち止まった後、中へ入っていく。

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