2.正気のアップデート - 代替日本

クリニックでの医師との対面はあっけなく終わり、二人は治療する決断をした。その後何度かの通院のうちに必要な検査を受けた。実はメナンダクリニックを訪れる前に何件か他のクリニックにも行ってみたが、何かしらの理由で中断し、メナンダにたどり着いた。

そもそも普通に妊娠していたら、ここまで考えることはなかったのだろう。結婚して子供を持つことが既定路線だった一昔前は、向き不向きなんて考える余地なく、子供を持っていたのだろう。覚香の母もきっとそうだろう。

しかしそうはいかなかった。血液検査等の結果がそれを物語っていた。妊娠するのに必要な数値が低すぎたり、逆に高すぎたり。

それを見せつけられ、目の前の高い壁の存在を認識し、登り始める前に、本当に子供が欲しいのかと自問自答する必要に迫られた。正直わからない。子供を持たない理由はいくつも思い浮かぶか、子供を持つ理由が自分の中から出てこない。歩が子供を望まなければ、自分はどうしていただろう。

しかしそれでも登り始めた。積み重なったネガティブな理由の下に埋もれた、潜在的な望みがちゃんと存在すること、そしてそれが理由のない本能であることを信じて。これを決断と呼べるかはわからない。でも動き始めてからついてくるものもあるはずだ。誰かもそう言っていた。

「クリニックに通いながら、赤ちゃんを迎える準備をしなきゃいけないね」
「部屋を片付けたり?」
「それもいいね。もっと住みやすいところに越してもいいし」

天気の良い4月のある日、買い物がてらの散歩の帰り道。ふたりはそんな話をしていた。散歩と言っても片道30分程の距離だ。同じ区内とはいえ、このあたりは大きなショッピングモールがあったり、飲食店やエキスポ跡地の緑地公園があったりと、活気のある雰囲気だった。

建設現場の前にさしかかる。大規模な団地群が建っていた場所だ。

以前目にした記事によると、その工事は公的機関から民間まで、様々な組織が絡む実験的プロジェクトとのことだった。

最初期に建てられたその大規模な団地群は寿命を迎え、建て替えの必要があった。しかし少子化の今、以前のような戸数が必要なわけではない。また、地震への備え、交通安全意識の向上など、団地が建設された時代と今とでは、社会を取り巻く情勢も大きく変化している。

記事によると、4階建ての大きなショッピングモールがそこに建設されるとのことだった。それは今までにない広さで、複数の棟が計画されていた。革新的なのは、そのショッピングモールの上に居住地が設けられることだと記事は取り上げていた。
居住区には、いくつかのマンションを除いてほとんどが2階建ての住居が予定されていた。住居と住居を隔てる通路は広く取られているため、どの住居も漏れなく南のバルコニーから日が差す。公園もある。隣の棟(居住区域)とは橋で行き来できるようになっていた。橋の4階分下(つまり地上)には、従来の自動車が連なる車道に、自動走行車もちらほら混じっていた。

居住区には車が上がってくることはできないので、子どもたちは公園だけでなく、そこらじゅうを駆け回ることができる。また、この都市まで津波が来た場合も、居住区が被害を被ることはほとんどないだろうと、その記事には書かれていた。

このプロジェクトがうまく行けば、老朽化した建物は徐々に同じ規格で建て替えられていくとこのこと。つまり街全体、ゆくゆくはこの国の都市全体が商業区と居住区のニ階層化されるということだ。

今社会が抱えている様々な問題をクリアにすると同時に、人々に未来を感じさせ、心躍るようなプロジェクトであったが、覚香にはひっかかるものがあった。そんなに都合のいいことが可能なのだろうか。建築基準法や技術的な問題をクリアにしているなら、過去にこれと同じような建造物があっても良さそうだ。しかしなんの前触れもなく、こんなに大規模で革新的なものが作られようとしているのである。
ここに住んでいた人たちは? 予算は? これまでの都市計画との齟齬は?

社会というのは、人々に混乱やショックを与えぬよう、ささやかに変化していくものなのではないのか。変化は、単調な時間の連続を維持する範囲でのみ許されるのではないのか。自分が立っているこの時代に、近未来SFチックなプロジェクトが遂行中ですよと言われても、にわかには信じられないのである。

「たとえばこの世界は誰かが作った仮想空間で、昨日僕たちが寝てる間に世界の基盤がアップデートされてたとしたら。建築の技術も。法律も」
「おもしろい!そういう空想大好き」
二人が笑いあう横で、クレーン車は着々と工事を進めていた。
「でもそうじゃなくても、私にはほんとのことはわからない。法律が改正されたってニュースを見たところで、中身に関してはちんぷんかんぷんだもん」
「法律だけじゃなく、僕らは専門家じゃなきゃ本当のことがわからないことだらけの中で生きてるよね。たとえば飛行機だって。飛行機が飛ぶ原理があって、それは教科書にも載っていて、その原理を説明できる人がいる。それに基づいて飛行機のパーツを作る人がそれぞれいて、それらを合体させる人がいて。そのことを僕も君も知ってる。だから飛行機は飛ぶべくして飛んでいると思っている。でもそれは、ほんとの意味で原理を知っていることになるのか。教科書通りにやったらほんとに飛行機は飛ぶのか。紙飛行機じゃなく、あの重い塊でも?」
「実は科学じゃなくて魔法でしたって告白されても、私たちにはどうしようもないね」
「学者が原理を見つけて、設計者が設計し、技術者が作る。つまり集合知でできている。ほんとの意味で飛行機の全てを知ってるひとりの人間というのはいるんだろうか? 自分の守備範囲以外のところに、魔法や超能力が紛れ込んでない保証はあるのだろうか……、とかね」
二人はそんな空想を共有し、帰り道を楽しんだ。
「電話も、アナログテレビも。この世界全体もね」
「そういえば、水ほど不思議な物質はないって記事も最近見たよ。固体の氷が液体の水に浮くのは、物質としてとても異例なんだって」
「今、私たちが取り組んでることもそうよね。妊娠の仕組みはわかっていても、そこより向こうの、いわゆる生命の神秘については、お医者さんもわからないって」
「つまり僕たちは、エビデンスがあやふやな上に存在している」

二人はその会話というか空想にのめり込んだ。そうこうするうちに、工事現場からずいぶん遠ざかり、別の市営団地が立ち並ぶエリアに来ていた。道の左をふと見ると、チョウチンアンコウをかたどった遊具が見えた。ずいぶん雨風にさらされたようで、サビが目立つ。
「こんな公園あったかな?」
会社員時代も含め、二人はこの道を何度も通っていたが、あの当時は忙しく自転車で走り抜けるだけだった。にしても、全く見覚えのない公園だった。
「昨日の晩に書き換えられたんだね」
「世界の基盤が?」

その五分後、空から水が落ちてきた。

とある分譲マンションの前を通りかかったときだ。前方1メートル足らずでバシャっと音がし、二人は驚いて少し後ずさった。
バケツ1杯の水をひっくり返したような量と勢いの水だった。そのびしょ濡れになった遊歩道の植木のあたり半径30センチ以外には小雨さえ降っていない。晴れわたった空。風もない。雲ひとつない。
だだ遊歩道の左のマンションには、洗濯物を干している人影は見えた。しかしここからは離れているし、バルコニーから誰かが水を撒いたとは考えにくかった。そうであれば、水は真上から一直線ではなく、放物線を描いているはずだ。

「え、え、え!?どっから落ちてきたの?超常現象!!?」
青い作業着を着た、このマンションの管理人らしき中年の男がやってきて、上を見上げ、大きな声で大げさにそう言った。
「UFOの仕業かもしれませんね」
歩がそう言った。水に濡れた地面を取り囲む三人の間に和やかなムードが生まれた。
「こりゃ追跡調査が必要だな」
男は日に焼けた人懐っこい笑顔を見せながらそう言った。
「何かわかったらまた教えてください」
地面と空を交互に見ている男を振り返りながら、二人はその場を去った。
「昨晩の書き換えで生まれたバグかもね」

それ以来、散歩のたびに二人はいろんなものを発見した。今までなかった小道。今まで部屋から見えることのなかった緑の三角屋根。今までいなかったはずの、汚れた水路に住む生物。群れをなして川を遡る魚の影。雨の日に見た透明の体の虫。見たこともない生き物の死骸のようなものが川を漂っているのを見た日もあった。

そのたびにこの世界が少しずつアップデートされてるのだと、覚香は空想を楽しんだ。通勤時間も含めて1日12時間は拘束されていた会社員時代には、こんなことを考える余裕などなかったなぁと思いながら。

そういえば、6月のある夕方、覚香は初めて建物の北側に太陽が当たっていることに気づいた。小学生の頃に理科で習った通りなら、太陽の傾きからそうなるのは当然なのだが、生まれてから何十年もそれに気づかずに生きていたのだ。朝は東、夕方は西に日が当たる以外は、ずっと南面しか日は受けられないものと思っていた。建物の北側を照らす太陽に気づいたこと(あるいは気づかなかったこと)も、基盤の何らかの変化なのだろうか。

多くの人はこんな白昼夢を知らずに日常を過ごすのかもしれない。会社勤めをやめ、ほとんど人とも交流せずにいる私たちは、白昼夢の中を生きているのかもしれない。白昼夢、仮想空間、近未来SF、なんでもいい。とにかく自分たちは、あの頃の自分たちとは違う世界を生きている。午後2時には眠気と戦いながらオフィスビルで働くスーツを着た人たちとは違う世界を。家のローンや子どもの学費のためにレールを走り続ける“普通の”人たちとは違う世界を。レールのような確固とした指針がない世界に出てしまった気がした。何ら確実なことなどないのた。だから空から水が落ちてくるのだ。

ヤバいなと思った。逆に言えば、その、“普通”のレールがこの世界における“正気”を保ってくれているかも知れないからだ。人々は似たような仕様のレールを走ることで、他人と互換性のある精神のあり方を“正気”とすることができる。歩と私のこの特殊な(レールのない)生活では、どんどん他の人たちとかけ離れていってしまう。共通言語のようなものを失ってしまう。
「大丈夫だよ」
覚香の心配と全く噛み合わないトーンで、歩はそう言った。
「僕たちは今、子どもを持つために環境を整備しようとしている。なるべく健康的なタイムテーブルで生活するように心がけたりね。まあ、それ以前の僕らの生活はデタラメだったけど……。そんで、この組織に属さない生活を維持するためのノウハウも蓄積しようとしている。それらが僕らのレールになる」
なるほど。
「それに、彼らの型はすでにボロボロだ。レールの上でたくさんの人が死んでいる。働きすぎたり、心を病んだり。僕たちは別の型を確立する時期に来てるんじゃないかな。ほら、フリーで働く人も増えてるし。新しい空気の企業だって増えてるし」
“正気”もアップデートされつつあるらしい。そして覚香は、子どもを待つためだけでなく、自分なりの正気を維持するためにも、今の規則正しい生活を維持するようあらためて決意した。

そう言えば、メナンダクリニックへの白い通路だって相当なものだった。屋上居住地プロジェクトに負けず劣らず近未来SFチックだ。初めて見るような光沢の素材でできた真っ白な通路。大都市の一等地とはいえ、あれはやりすぎだと覚香は思った。クリニックの中は、高級感があって洗練された印象といった程度で、現実感のある内装だったけれど、通路のあの物々しい“演出”は何だったのか。

白い通路、屋上居住地、落ちてくる水……。本当に正気を保っているのか。覚香は少し自分を疑ったが、歩の言う新しいレールを信じようと、そしてそれを手離さずにいようと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?