4.運命の第一投 - 代替日本
会えなかったらそれも運命だ。
0時前。スマートフォンを握りしめながら、ビルの13階にぽつんと光る明かりを見つめていた。それは覚香が先日まで勤めていたオフィスの明かりだ。
この時間も、昼間ほどではないが大通りを車が走っていく。電飾に飾られた街路樹の脇を、疲れたオフィスワーカーや、楽しそうなカップルが歩いている。
そんな夜の景色の中、覚香はビルの敷地内に立っていた。
目線をスマートフォンに落とし、登録された連絡先からオフィスの番号を選択し、発信をタップする。再び13階の明かりを見上げる。
呼出音が鳴るまでの、接続を待機する電子音に神経を集中させる。
「外村さん?」
驚いてびくっと体を震わせる覚香。おそるおそる振り返る。
「ごめんなさい、驚かせてしまって」
覚香のあまりの驚きっぷりに戸惑いながらも、いつもの優しい笑顔を見せる歩。
心臓のドクンという音とともに時が止まる。歩は微笑み続ける。言葉を発することができない覚香。
「いやぁ、お元気でしたか? 会えて嬉しいです!」
フレンドリーな歩。依然として声すら発することができない覚香。
「忘れ物がなにかですか?」
13階の明かりをチラッと見ながら、歩はそう言った。
「あ、はい……。傘を……」
「じゃあ僕取ってきますよ! ……ってか、どれかわからないですよね」
そこで少し緊張がほぐれ、覚香はやっと笑顔を見せることができた。笑い合う二人。
「長谷川さんは? 買い出しかなにか?」
「はい。ちょっと気分転換がてらに外出てきたんですよ。コンビニでも行こうと思って」
「あ、じゃあ、私も何か買おうかな」
歩きだす二人。
あまりにあっけなく歩と再会し、拍子抜けする覚香。歩の微笑みは、あの頃と変わらなかった。
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歩は“残業組”の常連だった。
Web開発を事業とするこの部署で、歩は主にフロントエンドを担当していた。
(フロントエンドとは何か。覚香は歩からその説明を受けたが、とりあえず、ウェブサイトやウェブサービスなどで、直接ユーザーの目に触れる部分のことを指すらしいという、ざっくりとした理解に留まっていた。)
しかしやがて、(その裏で作動する)サーバーサイドやインフラにも通じていることが周囲の知るところとなり、歩はいろんな作業に駆り出されるようになった。徹夜もしばしばあった。それでもたいていは、不満がなさそうに見えた。あの微笑みのせいだ。
歩のように、広い範囲の作業を器用にこなせて、なおかつ仕事を断ることに関して不器用なタイプは、必ず作業が集中する。
こういった現場では、上流工程でスケジュールが押すのが通例だ。
実作業はいつも納期ギリギリになるため、誰かに作業を引き継ぐ時間もない。
そもそもその作業をこなせる人員が不足しているため、残業代が発生しようとなかろうと、一部の人間だけが長時間労働を強いられる。
それはこのオフィスやこの業界だけでなく、どこの企業でもよくある光景かもしれない。
そして覚香の会社で、歩たちは“残業組”と呼ばれていた。
残業組と対極にいる人間(つまりその宿命から逃れることのできたグループ)は、そこに「社畜」と同じニュアンスを含ませ、嘲笑的にその言葉を使った。
今日覚香がこの時間にここへ来たのも、歩が今も変わらず残業組であることを期待してのことだった。そしてその期待は裏切られることはなかった。今までの人生で、こんなにも裏切られなかったことはないというほどに。
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「そうそう、そこに美味しいサンドイッチ屋さんができたんですよ」
前方を指差しながら楽しそうに話す歩。
大通りから少し入ると、オレンジの明かりに照らされた狭い店があった。少しさびれた印象なのは、最小限の改装でオープンさせたからだろう。前は肉屋か何かだったのだろうか。路肩に向いた冷蔵の陳列棚がそう思わせた。
陳列棚には、色とりどりの野菜やフルーツのサンドイッチが並んでいた。ライ麦かなにかのハード系のパンを使っているのがウリのようだが、その存在が霞むほどの野菜やフルーツがぎゅうぎゅうに挟まれていた。
思わず駆け寄る覚香。
「わあ、美味しそう」
「前、この赤いキャベツとサーモンのやつ食べたんですよ。めっちゃうまかったです」
オレンジの光に照らされた歩の瞳はキラキラ輝いていた。笑顔で振り向いた覚香の瞳も同じように輝いていた。
「今日、泊まりですか?」
コンビニへ飲み物を調達しに歩く二人。
「ええ、まあ……、いろいろありまして……」
えへへと笑いながら、珍しく言い淀む歩。
馴染みのコンビニが見えてくる。
「あ、そうだ、外村さんあの資料の置き場知りませんか? ミタ計画さんの案件のときに沢田さんが作ってた提案資料一式。森さんが探してて。沢田さん有給でいなくって」
「ああそれならたぶん……」
0時はとうに過ぎている。コンビニの袋を下げ、オフィスまでの歩道を二人歩いている。
時おり車道を車が通り過ぎるが、次の車がやってくるまで、つかの間の静けさが訪れる。その隙間に、ふわりと風が通り抜けた。
歩の前髪が風に揺れるのを覚香は見ていた。
こんなふうに夜の街で、二人きりで、オレンジの街灯に照らされた彼の前髪を、風が優しく通り抜ける。
初めての場面。覚香はそう感じた。いつも微笑んでいる歩が、そのときばかりは真面目な表情をしていたせいもあるかもしれない。
深夜という時間のせいかもしれない。あの頃のように、また明日出社すれば確実に会える関係ではなくなったせいかもしれない。
そんな感傷が、歩の横顔を特別なものに見せたのかもしれない。
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歩とはときどき一緒のプロジェクトをやることがあった。
作業内容が違うし、リーダーが間に入ってくれることもあり、役割上はさほどやりとりが発生するはずのない間柄だった。
しかしなぜか、給湯室で出くわしたり、リーダーから二人一組での雑用を頼まれることがあった。
歩ががっつり“残業組”に取り込まれてしまう前は、よく退勤のタイミングが重なった。同じ路線だったため、他愛のない会話を交わしながら帰った。
そんなふうに、不思議なほど偶然が重なった。
覚香はそれまで、あらゆる出来事に裏切られてきた。こうなればいいなと思ったことはことごとく実現しなかった。そんな法則の中で生きてきた。
しかし歩がそこにいるときだけは、いつもの法則が崩れる。何かが違う。
たとえば会話。
複数人で会話しているとき、覚香が今まさに思ったのと同じことを、歩が発言することがたびたびあった。
歩以外の人間との間で、そんな偶然が起こるのは稀だ。そしてたいていは、覚香のコントロール外へ会話は流れていく。
会話のキャッチボールという言葉がある。
しかし複数人で会話する場合、覚香はキャッチボールよりも、輪になってバレーボールのパスを回し合っているイメージを思い浮かべる。そして自分がそこにいる場合、ほとんど逃げ腰のまま参加している。今すぐ逃げ出したい。理由は例の、覚香を取り巻くの法則のせいだ。
みんなで輪になってバレーボールをパスしあっている。ラリーはテンポよく続いている。どうか自分のほうへボールが来ないようにと、覚香は願っている。しかしその甲斐もなく、ボールは突然飛んでくる。慌てて打ち返す。するとボールはあらぬ方向へ飛んで行き、ラリーはそこで終了する。心地よいテンポと緊張感もそこで途切れる。白熱していた輪はトーンダウンする。それがいつものパターンだ。
しかし歩がその輪の中にいると、その展開が崩される。
覚香がボールを打ち上げる。いつも通り、あらぬ方向にボールは飛んでいったはずだ。しかしその先に歩がいる。歩はこともなげにボールを拾い上げる。
予定調和が崩されてなお続くラリー。どよめきが起こり、会話の輪は謎の熱を帯びる。ときに笑いさえも呼び起こし、ラリーは続く。
それが覚香のボールでなくても、誰のボールでも、彼なら拾えるのかもしれない。しかし言葉や思考が被ることは、誰彼ともなく起こることではない。あるいは二人の間になにか通じるものがあるから、歩はボールの行く先で待っていることができるのかもしれない。
ともかくそんなふうに歩は、物事を覚香の期待やコントロールの範疇へ引き寄せてくれることが多々あった。
あるいは、少し外れた覚香のところまで、輪の範疇を広げるような作業なのかもしれない。
そんなことも含め、覚香にとって歩は、今まで出会ったこともないタイプだった。その存在を想像したことすらないタイプの人間だった。まさに宇宙人的な存在で、実際まわりからも、“天然”と呼ばれたり、からかわれたりしていた。
しかし同時に、覚香にとってこれほどしっくりくる人間は初めてだった。違和感や居心地の悪さを一切感じなかった。
覚香はたいていの相手に対して、(会話の展開が読めないせいか)気を使いすぎて消耗していた。しかし歩だけは例外だった。彼は人に気を使わせない天才だった。それは覚香よりいくつか年下なせいもあったのかもしれないが、それだけではなかった。
彼はスキだらけだった。いつも無防備にあどけなさをさらけ出していた。
意味を間違って覚えた日本語を使ったり、シビアな場面にそぐわないのんきな発言をしてはよく周囲に笑いを提供していた。そんなふうに笑われたりイジられたりしても、彼はいつも同じ微笑みを絶やさなかった。
他のメンバーが、今話題の技術や、新しくできた店の話など、尖らせたアンテナでキャッチした話題に興じる中、歩は突然、麦茶だとかたこ焼きだとか、自分の祖母について話し始めた。小学生でさえ話題にしないような他愛のないことについて語り始める。そこで場の空気は、大人びたムードから笑いに変わる。
“空気を読まない”を通り越し、空気を変えてしまうような、不思議な力があった。
そのキャラクターから、周りからは幼い弟のような、癒し系マスコットのような扱いを受けていた。誰からも敵視されることなく可愛がられていた。天然な言動が、周囲を油断させていた部分もあるだろう。
一方、歩はその専門分野において優秀な人材だった。少なくとも覚香の目にはそう映った。
覚香には技術の中身はわからないが、周囲の反応やプロジェクトの成果からそれは十分にわかった。
技術的な作業は何でもそつなくこなし、スピードも速い。スケジュールを乱すこともない。
彼の席にはしょっちゅう誰かが質問に来ていた。そのたびに彼は自分の作業を中断し、丁寧にレクチャーしていた。
質問されても面倒くさそうな態度を取らないせいで、いつも誰かがやってくる。そのため彼の作業は細切れになった。
それでも作業の精度は乱れることはなかった。
バグなど困ったことが起こればいつも駆り出され、その解決にあたっていた。
彼が提案したした仕様で作られた機能は、何故か顧客に気に入られ、長く愛用されることが多かった。
そんな彼を遠目に見ながら、彼の脳は“それ”向けに特化しているのではないかと覚香は密かに思った。覚香の言う“それ”とは次のようなものだった。
ひとつは、プログラミングなどの技術的かつ実践的なスキル。もうひとつは、システムやサービスをつくるにあたり、どう効果的に問題を解決するかというロジカルな思考技術。あとは、物事の本質と枝葉を選り分けるセンスとか直感とか。だいたいそのようなものが“それ”に含まれていた。
(もしかしたら、天才的に敵を作らないコミュニケーションスキルも、“それ”に含まれるのかもしれない。)
フィクションの中で描かれる、優秀なキャラクター像とはかけ離れていた。ドラマでも小説でもなく、現実において、能力を発揮できる人間とはこういうものなのかと、覚香は思った。
それが社内で出世したり、社会で成功する類の能力なのかはわからない。学生時代に、クラスで人気者だったタイプとも違う。覚香にとっては、初めて見るかたちの才能の発露だった。
能力とキャラクターのギャップ。誰にでも等しく柔らかに接する態度。覚香はそんな歩に、密かに好意を抱いていた。
しかしもっと強く、覚香を惹きつけたものがあった。それは彼の闇と脆さだった。
時々、彼は別人のようになることがあった。いつも穏やかな彼から微笑みが消える。それは納期に追い詰められている時である場合もあれば、まったく予想のできないタイミングの場合もあった。
そんなとき彼は、全身から負のオーラを漂わせていた。この世の終わりのような表情をしている。周囲も彼の異変に気づいている。数十分もトイレや非常階段に姿をくらませることもあった。
声のトーンも違う。どこか遠く深いところから響いてくるような、ぶつぶつと独り言を言っているような、なんとも表現できない声だった。発せられる言葉は、ほとんどがネガティブなものになる。
たとえばコンビニの店員のささやかなミスに対して、延々と愚痴を言っていることもあった。まるで別人だった。いつもの天真爛漫さの反動のようにも思えた。精神のアップダウンの波が激しい。同僚は彼のことをそう認識していた。
その現象の理由は謎のままだった。
その危うさに覚香は惹きつけられた。いつもはふわふわと、妖精のようでありながらも、それと相反する面を時々覗かせる。その陰が無性に気になった。
しかしその闇が去れば、まるで何もなかったように晴れわたる。本人も周りの人間もそのことを忘れてしまう。彼のその、アップダウンの激しい特性さえすっかり忘れ去られるようだった。不思議なほどに。闇など一度も訪れなかったかのように。一度普段の彼を取り戻せば、さっきまでの闇はなかったかように周囲に錯覚させることができる。そこにも特殊ななにかがあった。
覚香はもうひとつ不思議に思うことがあった。
彼は(闇に落ちていないとき)あまりにも等しく、誰にでも優しく接するので、他人を個別に認識していないのではないかと、そう思うことがあった。すべてをひとつとして認識しているのではないか。彼のそばにいると、ふとそんな感覚に囚われる。
庭の花に水をやる人が、どの花も等しく愛でるように、その花の集合全体を愛すように、歩も他人を個々ではなく、ひとつの全体として愛すべきものと認識してるのではないかと。歩にとって、自分はその花の集合の一部でしかないのかもしれない。覚香はそんなこと感じた。
なので覚香の話に歩が優しく耳を傾けたり、心地よい相づちを打ってくれても、彼が自分をどう思っているか、全くわからなかった。
この人の心の中はいったいどうなっているのだろう。
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「あれ? 外村さん、もう電車ないんじゃ…?」
歩の声にハッとし、我に返る覚香。オレンジの街頭の下、歩はこちらに微笑みかけていた。
「あ……、自転車で来たんです、電車代ケチろうと思って…」
「チャリで来た!? いいっすねそういうの、僕そういうの好きです」
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半分照明が落とされたオフィス。雑然とした雰囲気に変わりはなかった。たった数ヶ月前まで毎日通っていた場所。独特のにおい。懐かしいような不思議な感覚にとらわれた。
二切れ入ったパックから、赤キャベツとサーモンのサンドイッチをそれぞれ一切れずつ取り出し、頬張った。
美味しいとひとしきり微笑みあったあと、早速二人は同じPCの画面に向かい、さっそく資料探しに取り掛かった。
覚香はモニターの正面に座り、いろんなフォルダを開いては首を傾げ、また閉じるという作業を繰り返していた。
「あ!たぶんこれかな、沢田さんが作ってた資料」
「あ、たぶんこれです」
よかったよかったと微笑み合う二人。
次の瞬間に沈黙が訪れ、覚香の胸を締め付けた。
左手の食べかけのサンドイッチを見つめた。これを食べ終われば、私は傘手に取りここを去らなければならない。その前に何か気の利いた話題を見つけなければならなかった。
「あの……、何か手伝うことあります?」
「いえ、全然大丈夫です!」
歩は曇りのない笑顔でそう言った。
やばい。見つからない。気の利いた話題なんて見つからない。何でもいい。沢田さんとか、同僚の話でも何でも。何か話さなければ……。覚香が焦って口を開こうとしたとき、歩が先に話し始めた。
「外村さん!」
「あ、はい……」
「じつは僕……」
「?」
微笑んだまましばらく黙って覚香を見ている歩。
「辞めるんです!ここ」
今日はそのために、データを整理したり、引き継ぎの資料を作ったりという理由で徹夜になったとのことだった。ここ数日、急ぎの案件が差込まれたため、それらの作業がずれ込んだらしい。
会社には特に大きな不満はないけど、ちょっと頑張り過ぎで疲れたので、リフレッシュのために辞める。歩は退職の理由をそう説明した。
「また次探すんですか?」
「うーん、まだよくわかんないんですよね。とりあえずしばらくのんびりします。とりあえず思いっきりゲームするつもりです」
ゲーム以外は今の私と似ているなと覚香は思った。
「でもひとつやりたいことがあって」
「え、なんですか?」
「作ってみたいものがあるんですよね。ウェブアプリというか、サービスというか」
「へー、面白そう!」
二人は歩のアイデアについて夢中で話した。歩はいくつものアイデアを持っていた。それらは、自分の実体験の中で必要を感じたささやかな機能から、身の回りの誰かを助けたいという思いから生まれたアイデアまで、様々だった。覚香はそのどれもに魅力を感じ、率直かつ好意的なコメントをした。
「外村さんは? お仕事探してるんですか?」
「うーん、そろそろ探さなきゃいけないんですけど、なんだかプツンと気力が切れちゃって……」
「あ、なんかそれ、わかります」
食べかけのサンドイッチを見つめながら、言葉を探す覚香。しかしプツンと切れた気力について、それ以上具体的に説明する言葉は見つからなかった。
「僕、外村さんのデザイン、好きだったんですよ」
歩は唐突にそう言った。
いつものように笑顔で、瞳をキラキラさせながら。
戸惑い言葉を失う覚香。喜んでいる自分に、これは彼のお世辞ではないかと言い聞かせる。
「外村さん。良かったら手伝ってもらえませんか? 」
「え?」
「アプリのデザイン。クライアントとかいないから、ラクだしきっと楽しいですよ。もちろんちゃんと報酬は出します!」
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繋がった。
覚香はボールを投げた。今回は歩と自分、一対一だった。
それはほとんどでたらめと言ってもいいような投げ方だった。
いつものようにボールはあらぬ方向に飛び、距離も十分ではなかった。しかし歩はそこにいて、それを受け取った。
深夜の街を自転車で駆け抜け、橋の上の晴れた空に広がる星を見ながら、覚香はその思いでいっぱいになった。さっきまでの、歩と歩いたオフィス街を、オレンジの光にきらめく歩の瞳を、語り合った時間を、揺れる前髪を、何度も反芻した。どの経路を辿ったのか思い出せなかったが、覚香は自分のマンションの駐輪場まで戻っていた。
鞄の中でスマホが光る。歩だった。どんな傘か教えて欲しい。よければ今度渡しに行く、といった内容のメッセージだった。
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