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ことばについて考えてたら、この10年間の人生を反省することになった。

今日は何の日ふっふ~ん♪とネタを探しにツイッターの森を歩いていたら、5月18日は「ことばの日」だそうで。

「横浜みなとみらいBUKATSUDO連続講座 言葉の企画2019」の企画生らが制定。「ことば」を大切に使い、「ことば」によって人と人とが通じ合えることに感謝し、「ことば」で暮らしをより豊かにすることが目的。日付は言葉の「葉」が5月の新緑の瑞々しさを表しているとの思いと、5と18で「こ(5)と(10)ば(8)」と読む語呂合わせから。漢字の「言葉の日」ではなく、ひらがなの「ことばの日」としたのには手話や点字など広い意味での「ことば」を知ってもらいたいとの思いが込められている。
日本記念日協会サイトより)

ことばって使わないとさびてまうよね。建物もそうやけど、人が住んでない家はどんどんさびれて朽ちていく。誰もいなくなった祖父母の家がそうやったな、とふと思い出した。

先月から週4で出勤してるけど、電話も鳴らへんし、元々自分の部署(島)はひとりのことも多いので、ほとんどしゃべらずに「おはようございます」「おつかれさまでした」の2ワードで帰ることもしばしば。寂と錆。

ちょっと脱線するけど、電車の広告減ってない? 私、ファッション誌の広告で知らないカタカナ語を検索したり、新刊書籍の煽りキャッチに「どないなハナシやねん」と心の中でツッコんだりするのが帰りの電車での日課なんやけど(行きの電車は立ったまま半分寝てる)、最近はなんか……「白いな」って。

おっと脱線どころか支線に入ってしまった。

本線に戻ろう。

これでも私、自分の脳みそはかなり「浅い」ということを自覚してる。

同じ音楽を聴いても、ライブを見ても、友人たちの感想はとても「深い」ところまで見て(聴いて)いるなと毎回感心するばかりで。それに引きかえライブ後の私は「あーーーー!」と天を拝むか、「ううううっ」と顔を覆うかの二択で、感動を言語化できない語彙力を失ったオタクとなって溶けて終わりという……。同じものを同じ時間同じ場所で見たはずなのに、「え?なんの話?」と友人たちの会話についていけないこともあったり。

テレビドラマの放送後に、ツイッターに感想や考察がたくさん出てくるけど、これも同じやなと。読解力の深さの角度がみんなすごい!
歴史の知識があれば時代劇の楽しみの幅は広がるし、たくさん本を読んできた人は、ひとつの台詞からたくさんのことを読み取る力があるし、主題歌の歌詞から主人公の心理を想像することもできる。そして、それらをちゃんと自分のことばで語ってる。

地頭の良さ、勉強してきた地層がこういうところで出るなぁと。

子どもの頃は平気だった(というかむしろバッチこいだった)長文を読むのが今は本当にしんどくなってしまった。雑誌や新聞の記事くらいの文量は読めるけど、小説とかは本当に読まなく(読めなく)なってしまった。
noteもスクロールバーが長いと途中で力尽きてブラウザバックしてしまう。
学生時代から比べると、読む量が圧倒的に少なくなった。

読むのが嫌いになったわけじゃない。読み物がおもしろくないとかじゃない。断じてない。ただただ文字を追いかける体力気力がないだけやと。
なんかスイーツの食べ放題で食べられる量が減ってきたのに似てるな(笑)

しかしこの体たらくでは、小3の自分もがっかりやな。ごめんやで。

思うに30代の10年間、全てにおいてサボって生きてきてしまった。20代後半、救急車や病院のお世話になるくらい、時間量だけはめちゃくちゃ働いたのでその反動もあるけど、それにしてもサボりすぎた。一番働かなくちゃいけない時間を棒に振った。職場だけでなく実家暮らしの環境にも甘えた。経験も詰めず何も残せなかった。転職できずにここにいるのがその結果だ。

積読でもOKとこの前noteで書いたけど、

ちょっとずつでも読む量を増やす筋トレをせねば、残りの人生までペラペラになりそう。よくこれでnote書けてるな、無謀なやつめ(笑)

いつにも増して時間を持て余してるから、noteやツイッターを見る時間が増えて、いろんな人の文章や考えに触れたのも気づきのきっかけになった。さすがに危機感を覚えるレベルや。リアルマネー以上に、ことば貯金がこれ以上目減りするのは避けたい。

別に難しいことばで話せるようになりたいとかじゃない。ただ、推しを語るに相応しい語彙はあった方がいいし(そもそも推しを陳腐なことばで語るのは失礼やしな)、ただ「よかったー!」「おもしろかったー!」では話は広がらないし、会話も弾まない。端的にもったいないなと。一歩、半歩でもいい、その先へ進むことばをつかまなくちゃ。レッツ筋トレ。がんばれ私。

うーん、結局本線に戻れず支線から車庫に入ってしまったな。