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仮眠

 これは映像制作部のAさんから聞いた話だ。
 
 その日は朝からミーティングが入っており、午後はAさんと先輩の二人でとある番組の映像を確認する予定だった。
「午前中のミーティングがスムーズに進んで、予定より早く終わったので、会社の近くにある喫茶店に行くことにしました。あそこ、お昼になると行列ができるから、チャンスだと思って。前にコーヒーがすごく美味しいって聞いて、一度でいいから行ってみたかったんですよね」
 Aさんの読み通り、喫茶店にはいつもの行列はなく、すんなり店内に入ることができた。
 日替わり定食(その日は生姜焼きだったらしい)を食べ、食後のコーヒーを飲み、会社に戻ると社内はお昼休憩の緩やかな雰囲気が漂っていた。
「急ぎの仕事もなかったから、デスクで中途半端になってたドラマの続きを見てたんですけど、お昼ご飯を食べたあとって眠くなるじゃないですか。映像確認のために部屋を13時から予約してたので、誰もいなかったら仮眠を取ろうかなと思って、先に編集室に向かうことにしました」
 
 各部署のオフィス以外の部屋は予約制になっており、空いている時間は誰が使ってもいいことになっている。
 予約していた時間まで20分ほどあったが、編集室に着くと中は真っ暗で人はいなかった。
 Aさんは中に入ると防音ドアのハンドルを下ろし、ガチャンと音が鳴ったことを確認する。入社したての頃、先輩たちにドアをきちんと閉めるよう口すっぱく言われたからだ。
 部屋の電気を点け、そのままモニターやスピーカーの電源も入れていく。これも時間になったらすぐに仕事を開始できるよう、後輩が率先してやることのひとつだった。
 
 ひと通り準備が終わると、一番奥の椅子に座り、机に突っ伏して寝る体制を取る。
 先輩が来るまで、そう思いながらAさんは意識を手放した。
 
「たぶん10分くらい寝てたのかな。『●●さん、●●さん』って、私の名前を呼ぶ声がして目が覚めたんです」
 意識が浮上して、Aさんは背後に誰かが立っているような気配を感じた。
 ああ、先輩が来たんだ。起きなきゃ。
 そう思い体を起こそうとするが、ふと違和感を覚え、動きを止める。
 Aさんは先輩を含め、会社の人からいつも苗字で呼ばれていた。しかし、背後にいる人物は、苗字ではなく下の名前で呼んでいる。
「そのことに気がついて、今起きたらダメだって思ったんです。それで、必死に寝たフリをしました」
 
 ●●さん、●●さん、●●さん。
 
 名前を呼ぶ声は徐々に近づいてくる。背後から隣に、隣から耳元に。
 たった数秒の出来事だったが、Aさんの心は限界を迎えようとしていた。
「そしたら、急に編集室のドアが開いたんですよ。びっくりして、寝たフリをしてたことも忘れて勢いよく立ち上がっちゃいました。まあ、入ってきたのは先輩だったんですけど……」
 
 Aさんはすぐに編集室の中を隅々まで確認したが、Aさんと先輩以外に人の姿はなかった。
「知らないうちに疲れが溜まってて、それで変な夢を見ちゃったんじゃない?」
 話を聞いた先輩はそう言うとすぐに仕事に取り掛かってしまい、Aさんはそれ以上何も言えなかった。
 
 あの日以来、編集室で仮眠を取ることはなくなったという。