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私はいつまでキミの”バディ”でいられるんだろう

この春から、娘は新しい保育園に通っている。

娘はもともと人見知りなので、馴染むのに結構な時間がかかる。毎朝、送っていくと指をしゃぶって顔を歪ませて私を見送る。まあ、ひとつめの保育園に行き始めたときは、手が付けられないほどに大泣きして先生に担がれていったっけ。それを思えばずいぶん成長したものだなあ……と、見送られる私のほうにもグッとくるものがある。

保育園からの写真(預けているあいだの様子が園から送られてくる)に写る娘は、びっくりするくらい楽しそうじゃなかった。笑顔がなくて目が死んでいるし、たまに笑っていても顔が引き攣っている。迎えに行ったときにこっそりと覗くと、一人でつまらなそうにオモチャで時間潰しをしているように見えた。胃がキュッとした。

私自身も人生において常にそっち側(人見知り)の人間なので、新しい環境に1人飛び込んでいくつらさは痛いほどわかる。が、そんな自分のことは棚に上げて、人見知りじゃなきゃずいぶん生きるのが楽なのに……と、人懐こい同世代の子たちと比べてしまっていた。


でも、あるとき、ふと気付いたことがある。それは保育園に迎えに行った私を見た娘の顔がパァァァッと漫画のように輝いたのを見たときだった。

ああ。この子にとって、私は「一番の親友、一番信頼できる相手」つまり“バディ”なのだ、と。

離れれば寂しいし、会えたら嬉しいし、全部を知ってほしいし、常に見ていてほしい。そんな一途なまでの愛を独占しているのだ、私は。

子育ては「今だけ」の連続。今は喜びを爆発させながら私に駆け寄ってくるこの子にも、そのうち親を超える「バディ」ができるはず。そう思うと、私が彼女の「一番」でいられるのも、本当に短いあいだのことなのかもしれない。

そういえば、娘は小さいときから公園に行っても集団には近寄らず、「こっちであしょぼ」と私の手を引いて公園の端っこでずっと一人で水遊びをしたりしていた。

当時は「集団行動が取れるようになってほしいなあ」「お友達つくれなかったらどうしよう」と思ったものだけど、振り返ると、そのときも彼女にとって信頼できるバディは私だけだったのだなあ。今思えば、すごく贅沢な時間だったような気がする。


今日も、娘は私を呼ぶ。

「ねえ、こっちきて」「これ見て」「一緒にブロックで電車を作ろう」

疲れていたり、面倒くさかったりすると「一人で遊んでくれえ……」と思う。正直なところ、しょっちゅう思う。今日も思った。でも、最近はある問いが脳内でふと浮かんできて、私を起き上がらせるのだ。

「私は、いつまでこの子の“バディ”でいられるんだろう」

この子のバディ枠を誰かに渡さねばならなくなる、その時まで。思う存分独り占めして楽しんでやろうじゃないか。

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