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「退屈」って何?

 今日、いつも通っているクリニックに病状の報告をしに行った。
 よく精神科の診察は「飯食ってるか? 寝てるか?」と確認をして終了、大して話聞いてくれない!という患者の文句がある、という話があるが、わたしが通うところもまあそういう感じである。ただ別に文句はない。そういうもんだと思っている。待ち時間も短いし、静かで良いクリニックだと思う。

 診察も終わりに近づき、医師が「仕事をお休みされていて、『退屈だな』と感じることはありますか?」と訊いてきた。この質問は初めてではない。「いや、別に感じないです」と答えたところ、「それならもう少し休んだ方がいいですね。退屈と感じるかどうかが一つのバロメーターなので」と言い、休職期間がまた延びた。この返答も初めてではない。
 毎度毎度、診察のたびに退屈かどうか訊かれているような気がする。わたしはそのたびに「いいえ」と答える。
 そういえば別の心理士が担当するカウンセリングでも、「『退屈だ』と感じるまで自分の好きなことをなさるといい」と言われた。一般的にメンタルが疲弊して仕事を休むに至った人はそうすることが望ましい傾向にあるんだろう。

 「『退屈』になるまで、自分の好きなことをする」。
 帰る道すがら、今日はあったかいを通り越してあちぃなと思いつつ、「『退屈』って、どんな感覚なのか分からんな」「もしかしたら人生で感じたことないかもしれないな」と考えた。

 やりたいことがない、といいつつ、やらなきゃいけないことは大量にある生活をずっと繰り返してきた。
 友達と遊ぶこと、仕事、家族のいざこざをうまくすり抜けること、勉強、部活、デート、云々。
 いくら楽しい予定でも、予定が入っていると疲れる。数日予定をこなして少し休んで、また数日予定をこなす。予定をこなしたストレスをまた別の予定で緩和させている錯覚すらあった。
 (それはわたしの場合、体調不良という形でツケを払うことになるのだが)
 そのサイクルは物心ついたときからずっとあったような気がして、心から「暇だ!」「退屈だ!」「何をしたらいいか分からない!」と思った記憶を辿ろうとしても、見つからない。

 この「退屈問題」、身体が動かないような抑うつから少し立ち上がってきた時には、その時期特有の焦燥感と相成り、違う形で現れた。
 「わたしは今、『退屈』なのではないか? そう感じないだけで、実際そうなのではないか?」
 「医師が『退屈だと感じたら、仕事をする合図』と言っていた。わたしは本当は、仕事をするべき時なんじゃないだろうか? ということは、わたしは自分に『退屈じゃない』と言い聞かせているんじゃないだろうか?」
 文字にすると意味不明だが、当時は本気でそう思っていた。脳は容易に狂うよ。みんな気をつけな。
 この、「治っている=働く」という命題が「働いている=治ったことになる」にすり替わった結果、自身が自身に労働を強制しようとすることは、ほかの精神病でもよくあることらしい。
 中井久夫の『世に棲む患者』に書いてあった。いい本だ。

 まあ、というわけで、今この世界のどこかでのんべんだらりと過ごして「あー、暇だな」とぼやいている人も、その感覚が活かせる日は来るのかもしれない。
 わたしは人生初の「退屈」を感じるために、まだもうちょっと休もうと思う。
 それじゃ、また。

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