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僕が変わったのか?

子供が小さい頃お世話になっていた先生のところに行く機会がありました。
子供成長に喜んでいただいたのと同時に
僕が今、行動していることを説明した時に
「変わったね」って言われました。

この言葉に違和感を感じながら数週間過ごしていたのですが、
子供が高校に行く姿を日々見ながら
「変わったね」
の意味が何となくイメージできた気がします。

昔の僕

子供が小さかった頃
僕は先生方に任せることが最適だと感じていました。
未知の問いに自分の知識をつける意欲よりも
子供の成長と周りの子供達との差を大きく感じていなかったから。

今の僕

歳を重ね我が子のペースで成長してくれていますが
社会に出るまでの期間と
同じ世代の子供達の差が広がっていくことを
感じると僕ができることを最大限にしたい。
学びたいと感じています。

学びに対する必要性

自分の未来は感じにくいですが誰かとの未来を感じることで
自分の未来を感じられます。
パートナーだったり身内だったり
友達だったり。

自己犠牲を感じて進んでいる時には
自分の未来は見えません。
仮に周りから見れば自己犠牲で行動しているように
見られていたとしても自分に幸福感を感じられているから
自分の未来のために学びの必要性を感じられます。

自分のために学ぶこと

誰かの幸せと自分の幸せが重なっているのは
勝手な思い込みだと思うんです。

それが子供のためだとしても。
子供達の人格が成人するまで
親のものって勘違いしていたのかも知れません。
社会に出るために親がしてあげるられることは多いです。
でも子供本人が求めているかは別の話。

だから子供と共に歩むんです。
僕の幸せと子供の幸せの方向性のズレを理解しながら。

自分の未来の方向

自分の行きたい方向が決まっていないと
一緒に進みたい人との方向性のズレは感じられません。

自分の生きたい方向のために学んだことが
子供の未来にも役立てられそうであれば嬉しいです。

自分を大切にすることで学びが深まってきます。
そして大きな力を生み出すことができます。

僕が変わったのは自分の方向性を自分で決められたこと。
親としてじゃなく
一個人としての方向性。

これが子供に対しての道標になればベストです。
手を引きながら歩いていては子供にとっても良くない影響が出ます。
子供にも自立して欲しいから僕が先に自立します。

未来は自分で切り開くものだと信じて。

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