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「オランダどう?」

オランダに来てはや2週間近く。(9月前半)

こっちに来て新しく買った、カモミールのシャンプーの匂いにも慣れてきた。いろんなものが高いところに置いてあるのも慣れたし、みんな英語が話せるから意外と生活には困らない。けれど地味に色々なことにビビっている自分にも気づく。新しい駅で乗り換える時とか、入ったことのない店に入る時とか。
一人部屋もまだ慣れないように思うし、14平米の部屋は小さい私には余ってしまうように感じる。

これまで、日本をベースとしたコミュニティや学校を中心に築いてきたコミュニティが一挙に過去のものになり、全く新しい世界に放り込まれた感覚。「自分」というのは、どのコミュニティに属すかで役割が違って、それによって定義されていたんだなと痛感させられる。
法律的に規定されている「自分」もあやふやだ。具体的なことで言えば、住民登録もまだ済んでないし、在留カードももらってない。私は日本国民で、オランダの小さな町に住んでいるけれど、ここの住民ではない。それで不自由が生じることが多くある。(銀行口座開けないとか、携帯契約できないとか)「自分」の存在は法的にも規定されていて、だからこそ自由が生じるという教科書で学んだことを身に沁みて感じている。「我思う。ゆえに我あり。」といった人がいるけれど、その「思っている我」というのは、法的にも、人間関係にも規定されたものなのではないか?と感じてしまう。人間は個人と個人が繋がるネットワークと、法律という目に見えない力の間でふわふわ浮いているものなのかもしれない。

と、ぼやぼや考えていても仕方ない。
じゃあこれから、自分にとって新しい場所で、どんなコミュニティを選んで「自分」を築いていこうか。

今まで当たり前にしていたことが全て新しくなって、それに適応していくのが精一杯で、一息つくにもつけていないのかなぁとも感じる。
ボーっとすることはよくある。(それはインターネットがなくてスマホを見るにもやることがないから)でも、それで頭の中が整理されてるというより、放心状態になっているような感じ。放心しているうちに、これまでの既成概念が頭から出ていって、こっちの文化や日常に適応していくのかなとも思う。

さて、本題に入ると。
いろんな人に、「オランダどう?」とよく聞かれる。

一般的なことを言うと、建物は古い石造りでとても綺麗だし、運河や果てしなく広がる牧場、稀に見る風車がのどかな雰囲気を醸し出している。街も比較的安全で、とても住みやすいところだ。

何より、人々はゆっくり流れる時間をとても大切にしている。土曜日の昼下がり、船が運河を流れていくのを横目にパラソルの下でコーヒーやビールを飲みながら友人や家族と時間を過ごすという日常はとても素敵だ。
こちらの人たちは、見えない何かへの焦りがあまりないのではないかと思う。今、ゆっくり流れる時間を大切にする感覚。
それは今までの自分に一番足りていなかったものだと思う。

自分自身がここにいると、「自分が東アジア人、日本人である」(ある意味西洋人でない)ということを感じさせられる。大学は留学生が多いとはいえほぼヨーロッパ出身の生徒であるため、最初は自分がグループで唯一の非ヨーロッパ人であることにある意味引け目を感じていた。中国人と間違えられることも驚くほどある。だんだん慣れてきたが、暗黙裏に共有されているヨーロッパ中心主義を感じることもよくある。「植民地化」という日本ではあまり取り上げられない話題がこちらではより近い問題に感じられる。

まだ手持ち無沙汰というか、自分がいるべきところにいない、パズルのピースが上手くはまらないような気持ちがする。

大学の授業は1週間半後から始まって、私はまちづくりについて学ぶ。現地に来てみて、これまで緻密に作ってあったはずのプランが目の前で急にぼやけてきた。私があの時発したあの言葉は、本当は何を意味していたのだろうか。プランの解像度のなさにため息が出そうだ。
でも、これまで何も知らなかった自分が新しいことを学ぶのだから、大体の方向性だけでもいいじゃないか、と励ましたい自分もいる。自分の真ん中で、ワクワクとフワフワが交差している。

ここにきて心掛けているのは、とにかく焦らないこと。心に少し隙間を持って、自分のペースで歩くこと。

よろよろしながらでも、一歩ずつ進んでいっていると思いながら、今日も私はAlphenの街を歩いている。


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