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ヴェネチア ビエンナーレ2023 レポート

今回、2年に一度ヴェネチアで行われる建築のビエンナーレ "La biennale architettura" に行ってきた。そのレポートを残しておこうと思う。


ヴェネチアの街

イタリア、そしてヴェネチアに行くのは初めてだったが、古い街並みだけでなく、人々の暮らしや街のリズムまで近代化の波に巻き込まれずに存在していることにとても驚いた。街の中に車は全く入れない。
毎朝船で食料品などが運ばれ、人が橋の多い街の中を縫うようにして荷物を運ぶ。もちろん自転車やバイクも通れないので、Uberのようなデリバリーのお兄さんはその足で橋を駆け抜けていく。
少し路地に入って上を見上げると、地元の人が窓からせり出してせっせと洗濯物を建物と建物の間のロープに干している。至る所のカフェは朝早くから開いていて、常連さんが立ち飲みでエスプレッソとブリオッシュを食べて出ていく。いつでもどこでも、知らない人同士でも街角やカフェで会話が生まれている風景がある。

洗濯物がはためく街角。

ターコイズブルーの運河と地中海、そして真っ青な空に挟まれて存在している、生き生きした人々の力を感じる街だった。

青のサンドイッチ。

この街の魅力については、いつまでも書けてしまうのでそろそろビエンナーレについてに移ろうと思う。

ビエンナーレは、Giardini(ジャルディーニ)とArsenale(アルセナーレ)の二つの会場で行われる。各国がそれぞれの展示空間を持つナショナルパビリオンと、キューレーターによってまとめられた、個人のスタジオやアーティストが出展するキューレータプロジェクトの二つが両会場に設えられている。

今回のビエンナーレのテーマは、"Laboratory of the future" (未来の実験場)でキューレーターは、Lesley Lokkoという小説家・建築家だった。彼女はビエンナーレ史上初めてアフリカにルーツを持つキューレーターだそうだ。特にキューレータープロジェクトにおいては、アフリカ出身の建築家やスタジオに強い焦点が置かれていた。

また、モダニズムからのシステムと価値観的なパラダイムシフト、そしてポストモダニズムのさらに先、つまり22世紀をどのように作っていくか、というステートメントが集まっていた。
植民地主義や搾取主義(extractivism)によって荒廃してしまった土地や失われつつあるアイデンティティを建築を通してどのように取り戻し、未来を描いていくかということが非常に大きなテーマだった。特に今回は、アフリカに焦点が置かれていたこともあり、ナショナルパビリオンにおいても、旧植民地であった国々や、そこから第一世界の国々に移住した(させられた)人々、それぞれの国の先住民の持つ価値観と強いメッセージ、そして建築様式がそれぞれのテーマの中心に据えられていた。
また、資本主義の市場の中では価値のないものとして切り捨てられてしまう土地や空間そのものの持つ(排除されてきた)人々の作り上げたストーリーや歴史性を再び認識し、それを空間の中心に据えることの試みも多く見られた。
そして、マテリアルの転換や、インフラなどの社会システムの変化を通して、人間の営みをいかに自然の流れの中に戻していくかというエコロジー的視点も強かった。

「建築」そのものを、単なる建物としてではなく、人々の複雑な歴史やアイデンティティの具象化として、人間と非人間との世界の接点として、など広い範囲かつ多元的な世界観から捉え直す試みであったといえる。

1日目 ジャルディーニ

まず、ジャルディーニから書いていく。1日目は美しい青空が広がる朝だった。水上バス(ヴァポレット)に乗って、朝日を浴びるヴェネチアの街を眺めるのは圧巻だ。潮風で風化した黄色やオレンジの建物が朝日を浴びて、青い空と海とのコントラストを一層はっきりさせる。
会場近くのパン屋さんでカプチーノとブリオッシュを頼み、土曜日の朝をゆっくり楽しむ地元の人々を眺めてから会場に向かった。

ジャルディーニはヴェネチアの中心からは離れた地元の人々の地区にある大きな庭園。多くのナショナルパビリオンが建物として庭園の各所に存在している。三方が海に面しているため非常に眺めがいい。

ジャルディーニの一角。海がきれい。

セントラルパビリオン

入って最初に、セントラルパビリオンに向かった。ここでは、今回の目玉とも言える "Force majure" というアフリカ出身もしくはアフリカにルーツを持つ建築家の展示だ。

セントラルパビリオンの入り口

入り口には、「影」についてのLesley Lokkoのメッセージが。
「日差しの強いアフリカでは木陰は必要不可欠である。誰がその木を植えたのか、誰のものなのかはわからない。影は残された数少ない民主的な空間である。」

どの展示も非常に興味深かったが、その中で印象に残った二つを紹介したい。

一つ目は、Kéré Architectsの展示。フランシス・ケレは、昨年プリツカー賞を受賞した建築家だ。
西アフリカの伝統的な建築を基にした土の建築で、コピーペーストを繰り返し、文化や自然の消失に加担してきた近代建築に対する「カウンターアクト」というのが展示のタイトルだった。「なぜ私たちはこの方法で建物を建てるのか?変わったものは何か?変わり続けないものは?」というのがキークエスチョンであり、人々のニーズや土地のマテリアルをもとに建物を作ることがその土地にとって本当に必要なものを作ることにつながる。
赤茶色の土壁や、曲線や円を主にした空間は、コンクリートにはなく、木造とは別の独特の温かさを感じさせた。

二つ目は、Hood design studioの展示。アメリカ、オークランドの湿地のランドスケープデザインの提案だった。
一万年以上前からの土地の歴史を遡り、その土地の自然や住む人々、そして文化の変遷をたどり、植民地時代に人々が入ってくる前の植生を取り戻すとともに、アフリカにルーツを持つ人々の歴史やアイデンティティも空間を通して再興していくという試み。
1950年代に、湿地は高速道路(Route 1)として開発されたが、その時にアフリカ系の住民がそこでアフリカ伝統の籠を編み、売ることで生活の糧にしていた。その籠の形のシンボリズムを用いた公園のゲートのデザインが展示されていた。
シンボルを用いて、その土地に住んでいた人々のアイデンティティを空間の中心に持ってくること、また人間が入ってくる前の原生の湿地と、その土地に移動してきた人間の様々な文化を両方体現しようとする提案。土地の歴史を考える上でいかに多様な側面を考慮し、「都合の悪い部分」を排除せずにそれらを調和させていくことができるか、という重要な問いだと感じた。

1万年の土地の歴史が壁に描かれている。手前はカゴを模した柱の模型。

ナショナルパビリオン

ベルギー
微生物による新しい建築のマテリアルの展示だった。マテリアルは無機質な単なる道具ではなく、意志(agency)のある「他の生き物」であり、生き物とともに素材をつくるというコンセプトを大事にしていた。展示場はシンプルなつくりで、素材のテクスチャを観察できるような空間だった。人が作っただけでは完成せず、微生物など他の生き物によって無機質の素材が風化していったり、有機物の他の生き物とともに作っていくことによって、馴染みのある豊かなテクスチャが生まれる。他の生き物との共同作業なのだと感じた。

菌類によって作られた壁。味がある。

フィンランド
水洗トイレに疑問を呈する、衛生環境インフラに関する展示。人間の排泄物を流すのに、真水が大量に使われ水質環境の低下を招いていること、また、農業用の化学肥料となるリンなどの採掘が環境破壊を引き起こしており、埋蔵量も低下していることにフォーカスを当てていた。フィンランドの伝統的な小屋の乾燥トイレをインフラとして発展させ、乾燥した排泄物から肥料を作ることで、自然界の富栄養化を止めるというアイデアで、とても興味深かった。

北欧三国(フィンランド・スウェーデン・ノルウェー)
Samiという先住民の住居様式を実際に体験することができるパビリオンとなっていた。アザラシの皮を使った絨毯や、鮮やかな模様の伝統的な布で飾られたベンチ、木組みのテントなどがあり、たくさんセクションに分けて先住民のアートや建築様式に関する本が置かれていた。

かなり雑多で、自然のマテリアルと人工物が混ざり合う。

アメリカ
アメリカが発明した「プラスチック」というマテリアルについての展示。プラスチックは私たちの近代的な生活様式を支え、建材として人間を暑さや寒さから守ってきた。しかし、それらが人間の存続を脅かしているというその二面性を感じた。

日本
ずっと楽しみにしていた日本館の展示。「愛される建築を目指して」がテーマだった。メッセージ性が強く、来訪者は受け手として情報を受け取る他のパビリオンとは一線を画する展示だった。
色々な世代で常に賑わっており、階段のところで座って会話を楽しむ若者のグループや、ピロティで工作に夢中になる子供たちなど、それぞれが好きなように場を使いこなしていた。作る人も使う人も一緒に「生き物」としての建築を育てていく場が作られていく優しい空間に心を動かされた。深みと重厚感、彫刻的な美しさがありながらも、訪れる人々を包むおおらかな建物だった。吉阪隆正という建築家のものづくりに対する姿勢や生き方にとても興味をそそられた。

いつもたくさんの人と世代で賑わっている。

カナダ
ジェントリフィケーションに関する展示。特に、先住民の人々がかつて住む場所を追いやられてから、工業的な団地に住むことを余儀なくされ、コミュニティや伝統的な生活様式が消えつつあることに着目した、先住民の生活に合った現代的な住居スペースの提案は面白かった。他にも、"Reparative planning"と称した、過去の暴力によってその土地を追いやられた人々との対話をベースとしたプランニングのアイデアも新しく非常に共感した。建築家がキューレーションしている他の展示と異なり、大学生のチームが展示を作っていたのも興味深かった。

地元民の多いジャルディーニの地区で、美味しい白ワインと共にしょっぱいオイルサーディンの「マリナーラ」というピザを食べ、1日は終了。

2日目 アルセナーレ

ナショナルパビリオン

ペルー
「コミュニティカレンダー」の展示。それぞれの地域コミュニティで行われる採集や農業など、自然との関わり合いをビジュアル化して、自然保護団体と先住民の対話のツールにする。伝統的な自然との関わり合い(時期ごとの気候、森との関わり、川との関わりなど)と文化的な活動(工芸品の製作など)を一枚のカレンダーにまとめることで、自然環境や文化によって異なる有機的な時間軸の理解ができることはとても意義深いと感じた。それぞれの地域に流れる異なる時間軸を一目で見ることができるのは面白い。日本でも是非やってみたらいいかもしれない。

気候、生態系、文化、と土地のサイクルが一つに詰まっている。

チリ
「種」がテーマ。「種」を未来のメタファーとしてイメージしている。在来種の種を蒔くことによる、劣化した土壌と生態系の修復について、そして「建築」や「ランドスケープ」も種のように自然を修復していく役割を担うことができるというメッセージを感じた。

それぞれの球体には、在来種の種が詰まっている。

トルコ
アルセナーレで一番興味を惹かれた展示だったと言っても過言ではない、トルコ。昨年大きな地震が起って、脆いコンクリートの多くの建物が倒壊したこともあり、「建てる」「使う」とは何か、そして復興の際にどのように「建てる」べきかを考え抜いた展示だった。
"Architecture as a carrier bag"(物入れとしての建築)というテーマで、建物の解体(demolition)に疑問を投げかける展示だった。ランドマークは華やかさを求められて「ヒーロー」として建てられ、人気がなくなれば暴力的に解体されてしまう。また、必要でもない建物をむやみやたらに建て続けることは、資本主義から抜け出せない一種の中毒であるとも言える。それらは、私たちと建物との関係性を鋭く見抜いたメッセージだった。また、「どうやって、使う人の手によって建物が存在することに二度目のチャンスを与えられるか?」という良い問いや、「合気道のような建築」というキーワードにも出会った。物入れとしての建物であれば、一つ目の役割が終わっても、柔軟に他の役割を担うことができる。経済ありきで建て続けるのでなく、一つ一つの建物を見つめ、必要性やこもった思いから目を逸らさずに建物を長く使い続けること。「使い捨て」ではなく、既に建てたものを見つめ、対話し、次の役割を与えることの重要性を強く認識させられた。

展示にあって、読みたいと思った本をいくつか。
"Building must die - A perverse view of architecture" by Stephen Cairns, Jane Jacobs
"Preservation is overtaking us" by Rem Koolhaas, Jorge Otero-Pailos

とても良いインサイトだったので、トルコパビリオンのウェブサイトを。


南アフリカ
"Vernacular"(土着の)建築様式が見直される中で、その形だけでなく目に見えない精神的意義を建築様式の中心として取り入れていく必要性を強く訴える展示だった。Vernacularが大きく取り沙汰される中で、非常に必要とされる批判だと思う。確かに、形だけ取り入れるだけではその建築様式の本当の価値を見出すことはできないし、植民地主義の再発にもなりかねない。その空間にはどのような精霊が住んでいるのか?と、土地と空間の持つ物語を本当に理解することの必要性を感じた。

確かに、この空間にカメレオンの精霊が住んでいそうな気がする。

メキシコ
入植者の娯楽のために作られたバスケットボールコートが解放され、地域住民がその場所を自分たちの空間として取り戻す過程についてだった。バスケットボールコートの解体(deconstruction)は、物理的な枠組みの解体だけでなく、その場所に紐づいた植民地主義的な価値観の解体を意味する。既存の価値観の脱構築(deconstruction)と新しい価値観の構築(construction)は同時に行われるものだと、壊すことと作ることの関係性に関する新しい理解を得ることができた。

西アフリカ地域
"tropical modern architecture"を振り返る展示。トロピカルモダンの様式は、植民地時代にイギリスが、西アフリカの気候に対応した建築様式を考えるべくイギリスの建築家を西アフリカに送り、建築学校をスタートさせたことによって作られたそう。機能的には、エアコンがなかった時代に快適に過ごすことができる工夫がされており、サステナブルな建物の作り方として学べる部分がある。しかし、価値観の変化を無意識的にもたらす支配者の意図が多くあり、物議を醸す部分も多い。(学校の設計の際、動線と視線の中心に教会を持ってくる、そもそも土着の建築様式に全くもって着目しなかったことなど)

おわりに

キューレータープロジェクトも回ったが、たくさんの展示がぎゅっと詰まっており、全てを頭の中でつなげて理解することはなかなか難しかった。が、エントランスにあったLesley Lokkoのメッセージが多くを語っていると感じたので抜粋する。

"The Blue Hour. A period of time just before sunrise or sunset when the sun casts a diffuse light from below the horizon and the sky takes on a vivid blue tone….The Blue hour is sometimes marked by a subtle melancholy, or a moment between dream and awakening. It's also considered a moment of hope." 
「ブルーアワー。日の出や日の入りの直前、太陽が地平線の下から拡散した光を投げかけ、空が鮮やかな青色を帯びる時間帯......ブルー・アワーは、時に微妙な郷愁や、夢と目覚めの間の瞬間を示す。また、希望の瞬間とも捉えられる。」

Lesley Lokko, curator of the 18th International Architecture Exhibition
ビエンナーレの会場を出た瞬間。まさにブルーアワーだった。

私たちが生きているのは、まさにこの「ブルーアワー」なのだと思わずにはいられなかった。22世紀、「現代」に続く時代の夜明け。これまでの産業的、画一的価値観が通用しなくなる。抑圧され、支配されてきた人々や生き物、ものたちが語り始め、多元的な価値観がお互いを生かし合って世界を形作っていく。私たちは荒廃した地球の上に立ち、ここに住み続けていくしかない。人間はもう一度、世界を創造していくスターティングポイントに立たされている。
そんな時代の中で私たちは何を見て、何を考え、話し、作っていくのか。そのヒントが渦巻く、力強さを希望を感じるビエンナーレだった。


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