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奈良平安時代は「歯科」ではなく「耳目口歯科」だった:歯科医療の日本史①

 「歯科」という言葉は、明治以降、小幡英之助なる人物によって生み出された言葉です。歯科に相当する言葉は日本において遡ること701年(大宝元)年に制定された「律令(りつりょう)」の中に初めて現れます。(小野堅太郎)

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 701年の「律令」といえば大宝律令です。「律(りつ)」とは刑法のことで、「令(りょう)」は行政・民法のことになります。この「令」のなかに「医疾令」があり、医療制度を定めています。太古の昔から医療の分野には詐欺師のような人が横行し、不適切な医療が社会に弊害を与えることがしばしばでした。現在では医師・歯科医師・薬剤師等の医療従事者は国家試験を受けることによる政府管理の免許制ですが、これは明治時代以降の話です。「医疾令」は、先駆けて8世紀に「国が医療従事者を管理して全国に配置しよう!」とした試みでした。

 ただし、大宝律令の原文は残っていません。ですので、「おそらく大宝律令に医疾令があっただろう」と解釈されています。根拠となるのは757年の養老律令で、ここにはっきりと「医疾令」が記載されています(一部欠けていたようですが)。「養老律令は大宝律令とほぼそのままである」という解釈からそう信じられているわけです。養老令における「医疾令」の現代語訳が下のリンクで公開されていますので、是非ご覧ください。

 医疾令の話に入る前に、医療関係者の教育を行う組織として宮内省に設置されていた「典薬寮(てんやくりょう)」について説明します。典薬寮は皇族と宮廷官人への医療も行う組織です。天皇の医療担当は「内薬司」という別の組織が当初は行っていましたが、896年に典薬寮に吸収されているようです。まあ当時の医療・医学教育機関のトップということになります。

 典薬寮を取りまとめるのが「典薬頭(かしら)」です。この下に順に、「助(すけ)」、「允(じょう)」、「属(さかん)」という役職があり、「頭」と合わせて四部官と言われます。加えて、医療系教員としての「博士」がいます。さらには、薬園、茶園、乳牛院などの付属施設を有していました。この典薬寮は「大学」に分類され(現在の大学とは意味が異なり、「官僚養成学校」の意味です)、各国に設置する医育機関は「国体」という名で分けられていました。国とは今でいう県みたいなもので、日本国全体ではありません。典薬寮の医師たちは各国の医師を指導する立場にあります。

 医疾令では学生の資格、学習内容、定員、試験の回数などが定められています。典薬寮の選択コースとしては、医師となる医生(いしょう)、針師となる針生(しんのしょう)、他にも按摩生、咒禁(じゅごん)生、薬園生がありました。後に「女医」というのも追加されますが、これは婦人科のことであり女性医師のことではありません。医師・薬剤師の家系の人、もしくは13~16歳の優秀な人が入学できました。ちなみに、自分で医学を勉強した人は、試験を受けて典薬寮に登録することもできます。

 入学時には、束脩(そくしゅう)という贈り物を博士(先生)に送ります。入学金・授業料みたいなものです。大学博士は別に「職田(しきでん;養老律令以降は職分田)4町」の給付をもらっていますので、学生の入学に応じて臨時収入があったわけです。「職田4町って何?」との声が聞こえてきますが、職田とは官職の人に分け与えられる土地のことで、4町分もらってたことになります(791年以降は5町に値上げ)。現在の県知事に相当する「国司」で2町ぐらいです。県知事の給料は1,000万円ぐらいですので、2,000万円くらいもらっていた感じでしょうか。この土地を農民に耕作してもらい、私的な税として徴収して収入としていたわけです。公的な租税率は3%ですが、職田からは、かなりの割合を徴収していたと思われます。

 話は逸れますが、お米の収穫から現在のお金に換算するとどのくらいか計算してみました。1町が1ヘクタール(100m x 100m)ぐらいで、野球場ぐらいの広さです。1町で1,500㎏(10石)のお米がとれたようですので(現在はこの3倍以上採れるそうです)、4町で6,000kg(40石)です。江戸時代なら1石は、現在の5~8万円ほどの価値ということなので、そのまま適応すると年売上200~320万円ほどになります。うーん、奈良・平安は10倍ほどお米の価値は高かったのかなぁ?

 典薬寮の医生は、入学して一通りの医学書物を習ったら4つの専門科に分かれます。体療(内科)、創腫(腫瘍科)、少小(小児科)、耳目口歯(耳鼻科・眼科・歯科)があり、20人に対して12人、3人、3人、2人の割合で学生を分配します。年限があり、それぞれ7年、5年、5年、4年です。毎月、博士からの試験があり、季ごとに頭・助からも試験があります。全部終わると、大学を束ねる式部省から再度試験があり、合格成績に応じて位が決まります。国体の医生についても典薬寮同様の厳しい試験があり、成績が芳しくないと罰を与えたり、退学させられてしまいます。

 さて、「耳目口歯」というのが日本における歯科医療の正式な初記録と言えます。現在の耳鼻科・眼科・歯科が一緒になっています。もう一つ大事なのは、「口」と「歯」が別になっているのが、現在の「歯科」と異なります。口の病気と歯の病気は別物と捉えていたことになります。これは、奈良・平安の律令は、唐の律令を基にして規定されているので、「耳目口歯」というのは唐からの影響となります。

 残念ながら、平安時代初期にどのような歯科医学が教えられていたかは、わかりません。しかし、984年、平安時代中期に「医心方」(いしんぽう:全30巻)が丹波康頼により作成されます。日本独自というよりは、唐時代の医学書を引用して編集された日本最古の医学書となります。唐の医学書自体がほとんど失われているので、東アジアにおける医学史を知る上では、非常に貴重な資料となっています。

 次回はこの「医心方」の中の歯科医療(耳目口歯科の口と歯の部分)について紹介したいと思います。


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