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ベストセラー「解体新書」と豊前国中津藩:蘭学コトハジメ①

 解体新書といえば、江戸時代末期元禄時代のベストセラー医学書です。アンドレアス・ヴェサリウスによる「ファブリカ」という精緻な解剖図譜が出版されてから200年以上たって、1774年にようやく日本でも出版されるわけです。豊前中津藩との関係を簡単に説明します。(小野堅太郎)

 著者は江戸で小浜藩医として働いていた杉田玄白ですが、オランダ語はあまりできません。では、誰がメインで訳したかというと中津藩医の前野良沢です。彼は翻訳に満足がいかなかったため、出版の際には著者から名前を外させたといわれています。前野良沢も杉田玄白も、江戸生まれの江戸育ち。なぜ地方の藩所属の医者が江戸に住んでいたのでしょうか。

 江戸時代、忘れてはならないのが参勤交代があったということです。地方の藩は、一年おきに、自分の領地と江戸を往復して住まなければいけませんでした。人生の半分は、江戸で過ごすわけです。正室の妻と後継の子はずっと江戸です。よって、各藩お抱えの医者が江戸に常在することになります。

 前野良沢は二十歳ぐらいからオランダ(蘭)語を習い始めます。師匠の青木昆陽が亡くなってしまいオランダ語を学べなくなった前野良沢は、48歳の時に藩主奥平昌鹿と一緒に豊前の中津藩へ下向したついでに、長崎へ蘭学を3か月ほど学びに行きます。オランダ通詞の吉雄永章に指導を受け、そこで「Ontleedkundige tafelen」というドイツ語原著のオランダ語訳の解剖図譜を入手します。それまで日本では、まともな人体解剖が行われていなかったので、解剖図そのものがビジュアル的に大きなインパクトがあったことが容易に想像できます。

 一方、江戸では杉田玄白が、同じ小浜藩の中川淳庵からオランダ語医学書を見せられます。「これは腑分け(解剖)して確かめなければ!」となり、小塚原の刑場にて処刑人の解剖見学のチャンスを得ると、あまり仲良くはないけれど蘭学に詳しい前野良沢にも声を掛けます。杉田玄白と中川淳庵は、やってきた前野良沢が自分らと同じ医学書「Ontleedkundige tafelen」を持ってきたことに驚きます。三人は解剖により解剖図譜が正しいことを確認しました。

 「Ontleedkundige tafelen」こそ「解体新書」の原著「ターヘルアナトミア」です。そして、江戸の中津藩中屋敷で3年以上の翻訳作業が始まります。翻訳といっても、蘭和辞書などないわけですから、かなり無謀な挑戦であったと思います。杉田玄白はアルファベットもあやしい状態でした。前野良沢も数百単語を知っているのみです。医学書には、「日本にソモソモ存在しない言葉」もたくさん存在します。始まりから出版までの流れは、みなもと太郎先生の「風雲児たち」蘭学黎明編を是非読んでいただきたい。

 最終的に、前野良沢は「解体新書」の著者から外れていますので、ベストセラーとなったことによる名声を得られませんでした。しかし、藩主の奥平昌鹿は大の蘭学マニアで、医者としての仕事をせず蘭学に勤しむ前野良沢に理解を示していたそうです。1780年に昌鹿が亡くなり、17歳の昌男が継ぐが23歳で死去します。そこで昌鹿と仲の良かった薩摩藩主の島津重豪のところの、次男(6歳)が婿養子になり、1786年に奥平家の家督を継ぎます。6歳で家督は継げないので、この時、12歳と嘘をついています。まだ、こんな嘘が通ってしまうような時代なのです。明治時代もそんな感じです。

 この新しい6歳の藩主が奥平昌高です。前野良沢は1803年に亡くなっていますので、昌高23歳までは生きていました(享年81歳)。晩年は眼病と痛風に悩まされたようですが、江戸にきた昌高に対して直接オランダ語を指導したと思われます。この奥平昌高、藩主とは思えないほど蘭学にハマりこみます。

 昌高を含めた蘭学辞書の話を次回行います。お楽しみに。


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