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近世フランスの床屋外科パレ:歯科医療の歴史(近世ヨーロッパ編①:16~18世紀)

 床屋さんの前にある赤と青の縞模様は、動脈と静脈を表しています。なんで?!と思われるでしょうが、実は昔、ヨーロッパでは床屋は外科と歯医者を兼ねていました。今回紹介する16世紀フランスの床屋外科である「パレ」は、民間医学における外科の重要性を押し上げた人になります。(小野堅太郎)

 太古の昔から、「医者」といえば内科医のことで、病人を診察し、薬を調合するのが主な役割でした。何かの作業中での骨折や切り傷などには対応したでしょうが、戦争などでの深刻な外傷に「医者」は関わりません。かといって、戦場では傷ついた兵士を治療しないといけませんので、修道士がやっていたわけですが、教会がそれを禁じます。よって、戦場に行く「外科医」が大量に必要となってくるわけです。

 内科医の下に外科医はいたわけですが、その下により荒々しい外科・歯科治療が存在し、髪やひげを整える「床屋」で行われていました。当時は「瀉血」(いずれ記事にします)という血抜き謎医療も主に「床屋」で行われていました。

 16世紀、医学の最高峰といえばパリ大学医学部です。12世紀の十字軍遠征をきっかけとしたイスラム医学(インド・中国医学含む)のヨーロッパへの流入により、医学書はラテン語に翻訳されました。大学での共通言語はラテン語ですから、ラテン語を習得さえすれば、地域を超えてヨーロッパ中の大学へ留学することができました。逆に言えば、ラテン語ができないなら、まともな学者・医者とはみなされなかったわけです(パラケルススの記事参照)。しかし、裕福でなければ、誰しもがラテン語を学べるわけではありません。当時の戦禍状況では多くの医者(外科医)を必要としているため、パリ大学にラテン語を必要としない医科のコースができます。このコースに通うものは、「床屋外科(床屋医者)」になるわけです。混乱しますが、ラテン語のコースであれば「外科床屋(医者床屋)」になります。つまり、外科の中にも階級(階層)ができているわけです。

 1510年にアンブロワーズ・パレはフランスに生まれます。田舎の医者の弟子になり3年過ごした後、15歳でパリに出てきます。ラテン語の不得意な彼は、フランス語の医学講義を選択します。当時のパリ大学医学部の解剖学は、ジャック・デュボアが指導しており、フランス初の人体解剖講義を行った人です。デュボアはラテン語名が「シルヴィウス」で、その名を種々の解剖用語に残しています。デュボアによるフランス語講義において、利発なパレは相当気に入られたようです。異例なデュボア推薦により、早々に市民病院で床屋外科医として働くことになります。小野が調べた年齢だとまだ16歳です。

 10年後、パレは医長資格取得のお金を貯めるため、軍医として戦争に参加します(1536年)。このころの最新兵器といえば「銃」、火縄銃です。火縄を使わない銃も開発されていますが、戦争のメイン兵器は火縄銃でした。銃創は「火薬の毒」があるということで、熱した油を傷口に注ぎ込む「焼灼止血法」が用いられていました。パレはこの処置を戦場で行いますが、兵士が苦しみもがいて、結局死んでいってしまう状況を目の当たりにします。おそらく、その処置のための油が枯渇した時だったのでしょう。パレは自作の謎の軟膏を銃創治療に用います。すると、焼灼法より回復が良いことがわかってきます。兵士は苦痛にもがくこともありません。この新しい治療法で、一気にパレは名声を得ることになります。

 さらには、ガレノス書物に「血管結紮法」の記述があることに気づきます。四肢の切断において切断面を焼灼して止血していたわけですが、パレはガレノスの忘れ去られた血管結紮の手法を試してみます。これもまた、回復が良いことがわかります。

 大事なことは、まだこの当時「血液循環」がわかっていません。つまり、当時の医学的にはパレは「論理的でない医療をやる医者」と見なされました。しかし、当時の医学の方が間違っていたのです。後にパレはラテン語の試験を受け(ひどかったらしいです)、「外科床屋」となり、フランス王アンリ2世の主治医(外科)となります。とはいえ、アンリ2世が目を貫かれる大けがの時には治療をさせてもらえませんでした(アンリ2世は、その後死亡)。

 晩年にラテン語ではなく、フランス語で「パレ全集」を出版します(1575年)。これが外科学のはじまりともいわれています。歯科では、口唇口蓋裂の手術、口蓋栓塞子を開発を行っています。他にも抜歯鉗子など歯科用器具の考案、顎骨脱臼・骨折の整復、歯再植術もあるそうです。パレはプロテスタント(フランスではユグノーと言われる)でした。1572年8月24日の聖バーソロミューの虐殺を経験しています。80歳で生涯を終えています。

 1532年、パリ大学医学部へベルギー出身の学生がやってきました。その名はアンドレアス・ヴェサリウス。デュボアのラテン語解剖学講義で人体解剖の回数が少ないことに不満を抱き、イタリアのパドバ大学へ移ります。この時期、パレと大学ですれ違ったかもしれません。1559年、アンリ2世の危篤時にパレの代わりに診察したのが、次回記事の主役であるヴェサリウスでした。

 では、次回をお楽しみに。


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