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研究とオカルトはコインの表裏

 子供のころ、超能力、UFO、宇宙人やら、ノストラダムスの大予言など、結構信じていた。いつしかそれらが馬鹿馬鹿しいと思うようになったが、思い返せば、あれが自分の科学興味の入り口だった気がする。ちょっと考察してみる。(小野堅太郎)

 小学校の図書館に「ジュニアチャンピオンコース」という皆が読んでボロボロになったオカルトシリーズ本があった。修学旅行で夜、みんなと怪談話をしたりする。幽霊を見ただの、ラップ音がしただの、大学生の時もそういった話を楽しんでいた。大学を卒業して、研究の世界に入ったら、そんな馬鹿な話はしなくなった。現実の世界で、ぞっとする体験をすれば、そんな空想のお話はどうでもよくなる。

 超能力は巧妙な手品、UFOや幽霊は見間違え、予言や占い、性格判断はどうとも取れる用語の羅列。とか言いながら、お正月には神社でお参りし、お賽銭を投げ、おみくじに一喜一憂する。盆に墓参りをし、葬式にはお経をあげてもらう。いや、それは習慣だからという人もいるだろうが、お賽銭で人生好転しないし、おみくじはTVの血液型占いと変わらないし、死んだ祖先の霊はいないし、お経をあげなくても祟られるわけではない。でも、これをしないのはつまらないですよね。

 パッチクランプ法という実験法がある。顕微鏡でしか見えない小さな細胞に、細~い中空のガラス管を細胞膜にあてて、穴をあける(パッチ)。その後、電位や電流を操作(クランプ)して細胞の電気状態を調べる実験手法である。なかなか上手くいかずに何もデータがとれない日もあれば、ばんばんデータがとれる日がある。いつも同じように細胞を調整しているにもかかわらずである。現役で記録をとっているときは、毎日、パッチの神様にお願いして実験をしていた。これは、パッチクランパーには結構あるあるである。一応、研究者とはいえ、こんなもんなのである。

 要するに何が言いたいかというと、超自然(オカルト)は楽しいのである。もちろん、悪質で詐欺的なオカルト利用も存在するため、手放しでオカルトを褒めているわけではない。

 実は、科学というのは超自然への興味である。物理学者として有名なニュートンは、白色光をプリズムで分解して虹を作ってしまった。それまで、虹は超自然的で詩的なものであった。しかし、ニュートンのせいで説明がついてしまうと、途端に虹はつまらないものになってしまう。ニュートン凄い!と思われるかもしれないが、ニュートンの実験ノートは大量の錬金術に関する記載で埋められていたのである。昔の宇宙飛行士は宇宙から帰ってくると宗教に目覚めるし、幾人かのノーベル賞受賞者は急に非科学的なことを本にしたりする。つまり、科学はオカルトと表裏一体なのである。

 オカルトと科学の違いは、批判的精神の有無である。オカルト世界の人たちは批判精神がないことが多い(それを楽しむ人もいる)。一方、科学は批判精神に溢れている、、、とは言えない。バイアスといって、自分の都合のいいように解釈する危険性が常にある。正直、批判的精神はきつい。研究が終わらなくなったり、論文がどこにも掲載されなかったりする。研究者は、論文が出なければ、何もやっていない人と同じになってしまう。そういったことが、研究の世界、特に生命科学の分野では捏造といった元も子もない事態に発展することもある。

 研究がオカルトになるかどうかは、研究者自身の手に委ねられている。

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