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「認知」を考える : 我思う、故に我あり⑦

 これまで散々、認知や知覚という言葉を使ってきたが、これが一番難しい。(小野堅太郎)

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 私の考える「心の構造」は、認知快・不快の判断回路、そして学習による記憶の書き込みと想起による記憶の読み出しからなっている。正直、認知を含めるかどうかはかなり悩んだ。記事にまとめる前は「認知」とは「状況把握」であるので、心の構成には不用ではないかと考察していた。

 しかし、認知のことをよくよく考えると、感覚器からの情報をどのように「認知している」のか全くわからない。「見た」とか「聞いた」は「過去形」なので、記憶からの読み出しである。つまり、認知は経験として記憶されている認知されたものが必ず記憶されるわけではないので、認知と記憶は別の機能だと考えられる。同じく、快・不快の判断回路は、認知とは別物である。故に、認知とは、記憶回路と快・不快の判断回路に入力するただの情報源ぐらいのものと考えていた。

 本シリーズの4番目「空想を考える」でも述べたように、我々の知覚は仮想世界である。実時間より0.1秒ほどは遅れているし、一部の音、一部の波長の光、一部の香りしかわからない。今現在、ありありと感じるこの世界は、あなたの脳の中で作られた擬似世界である。これはあまりにも当然の事実である。

 野球でピッチャーの立つマウンドからバッターの立つホームベースまでは18.4 mである。球が150km/hrで等速運動したとすると、41.7 m/sなので0.44秒かかる。バッターが球が投げられたのを見て0.1秒で脳内でそれを認知し、運動野からの出力にも0.1秒かかるとすると0.2秒ほどで運動プログラムを生成しないといけない。考える暇などない。感じてバットを振れるよう訓練が必要になる。この「感じる」が認知の本質である。認知や知覚に「考えること(思考)」は含めない。考えるには記憶からの想起が必要なので時間がかかりすぎる。感情も含めない。純粋に感じること、それが認知である。

 訓練したバッターはおそらくバットが身体の一部となり、バット自体が感覚器となり認知されている。ゴルフクラブやサッカーボール、バスケットボールなどなど。自転車やバイク、自動車などなど。研究者はマイクロピペット、マニプレーター、キーボードなどなど。気がつくと感覚器は体外のものにまで拡張されている。この訓練自体には、意識回路が重要な働きをする。だから、ヒトは道具を使いこなせる。これを脳研究では「ボディマッピング」といい、脳内で身体を自由に形成し、知覚しているとされている。となると、認知は普遍的な状況判断の神経回路ではなく、意識回路によって可塑的に修正される「心の構造」の一部だろうと考えるに至った。

 神経における一つ一つの細胞単位のことをニューロンという。ニューロンは刺激を受けて閾値を超えると活動電位を発生させ軸索を時間差のあるデジタル信号として伝導する。これをコーディング(符号化)という。活動電位はシナプスに達すると神経伝達物質を放出し、接続する次のニューロンを刺激し活動電位を発生させたり、逆に抑制したりする。この抑制システムのおかげで、コンピューターより少ない素子で情報処理が行える(過去記事を参照)。さらに、シナプス間では刺激頻度が高いと伝達効率の長期増強や長期抑制が引き起こされ、これが学習の基本メカニズムとなっている。

 最近話題のAIの深層学習に使用されるのは、このような基本的な神経回路(ニューラルネットワーク)である。AIで最も問題なのは、ヒトがコンピューター上に作ったシステムなのに学習によって形成されたアルゴリズムが読み取れないことである。そのため、エラーを修復できない。非倫理的な差別発言をしだしたAIは口を封じるか、電源を引っこ抜くしかない。

 ヒトの脳に進化上で備わったデバッグコードである「意識回路」をAIに組み込むことができれば、AIは他者(ヒト)の意見を聞いてもっとマシな(賢い)システムになるだろう。さらに、多層化して機能モジュール化し、連結することで、ヒトのようなものができると思われる。果たしてそのような肥大化したAIは人のように意識を持ち、心や自我を持つことができるだろうか。

 まずは運動機能を持たないコンピューターの中だけのヒトのようなAIが作られるだろう。言葉による入力を受け、言葉を出力する。これは現在でも存在するが、次世代AIは意識回路を持つので記憶の塗り替えが可能である。つまり、倫理教育が可能となる。知覚、認知は「言葉だけ」になるだろう。ヒトでいうと、ウェルニッケ野になる。AIは入力・出力が今後しばらくは限られてしまうので、身体を持たないAIは「ヒトのようなもの」にしかなり得ない。身体を持ったとしても、感覚器を持たなければヒトにはなれない。とはいえ、コミュニケーションが取れるのなら、心や自我を持つことができるかもしれない。

 さて、これまで小野の空想脳物語を好き放題に語ってきたが、あくまでも空想である。確たる証拠はないが、思考の中では論理的にまとまったと思う。なんでこんな思考をやったかというと、17世紀の科学者、ルネ・デカルトの「方法叙説(小泉義之訳、講談社学術文庫、2022)」を読んで感銘を受けたからである。デカルトは沢山の友人の意見を聞いて自分の考えをまとめたようだが、小野は吉野先生だけにしか話していない。しかし、まとめる意義はあったと私の自我が訴えている

 最後にデカルトの話をして、この与太話を終わらせる。「我思う、故に我あり」シリーズ最終回となる。

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