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「神」を考える : 我思う、故に我あり⑧

 デカルトのいう「我思う、故に我あり」は、意外にも神の証明であった。なぜ神なのか。考えてみる。(小野堅太郎)

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 哲学では、肉体と精神を分ける二元論、精神は物質に起因する唯物論、それに拮抗して精神が物質を作るとする唯心論などがあり、スコラ学や形而上学もよく語られる。デカルトの方法叙説(小泉義之訳、講談社学術文庫、2022)では、これらの概念が全て入っている状態である。一般的には「方法序説」と知られる冊子は、2022年に「方法叙説」として新訳された。かなり読みやすい本なので多くの人に読んで欲しい。序説と叙説の違いは意図的な変更で、序説とは本論に入る前の導入文のことで、叙説とは本論そのものとなる。新訳を読むに本書は単独で成り立っているので「叙説」が正しい翻訳であろう。短い内容の6部構成となっており、一気に読むことができる。

 第4部に「私は思考する、故に、私は存在する」が出てくる。短い言葉なので誤解されることも多い言葉だが、哲学的決め台詞「我思う、故に我あり」として有名でである。簡単にいうと、あらゆる存在を否定しても、考えてる自分は明らかに存在する、ということである。デカルトは、この事実を揺り動かない真実の第一定理として議論を発展させている。

 本書を読んで最も意外だったのは、「我思う、故に我あり」から最終的に神が存在するとの結論に至っていたことである。形而上学における「これは何かの役割がある」という目的論を突き詰めて、神の存在を示したスコラ学と同じ結論である。デカルトは、目的論のような人を簡単に納得させらような理論を否定するものの考え方を提示したのだが、結論は同じであった。

 思い出してみると有名な科学者の多くは宗教家であり、宇宙飛行士も多くの人が宇宙に行ったあと敬虔な宗教信者になっている。私も過去の研究で何かを明らかにしたとき「へぇー、自然はよくできてるなぁ」と神(創造主)を信じるかのような感想を持った。以前、大学内でとある基礎系教授と話したとき「今朝のTVの血液型占いで最下位だったんだよ」と落ち込んでいるのをみて驚いた。我々は神を信じる癖を持っている。

 デカルトは第5部で、当時ようやく確立された解剖学の話をしながら「イギリスのある医者」による血液循環説の論理性を熱く語っている。この医者はウィリアム・ハーベィのことである(過去記事参照)。そして、最後の第6部では、アリストテレス学派の研究者たちが既知の理論に沿わせるように思考や実験結果を歪ませていると猛烈に批判している。現在の科学界も17世紀と状況は変わっていないようだ。

 科学的思考のあり方(方法)について述べたのが本書である。それは「我思う、故に我あり」ではなくて、「徹底的に批判して考察し、最後に残ったものが真実だ」という思考方法もしくは研究姿勢のことである。17世紀当時の限られた科学情報しかなかった時代のデカルトの結論、有名な第一定理は現代ではあまり意味を持たない(科学史には重要)。

 そんな近代科学の研究姿勢を明示したデカルトも「神の存在」を主張した。現代科学では唯物論でしかあり得ないので、神は象徴としては存在しても現実世界に存在し得ない。とはいえ、存在しないことを証明するのは難しい。

 ではなぜヒトは神を信じるか。科学は物質をかなり細かく分解したが存在に関して根源的には何も解決していない。超ひも理論は宇宙の始まりを想像させてくれたが、世界の始まる前は全くわからない。知識の重層化が起きただけで、基本的にはデカルトの時代とは大差ない。研究者の活動倫理も大きく変わってはいない。現在でも「神の存在」が納得いく説明として消え去らない理由である。

 なぜ納得したいのだろうか。なぜ知りたいのだろうか。それを知ったところで自分の人生は変わらない。より美味しいものを食べたい、よりよい環境に住みたい、そのために知識を得るのならわかる。思考が行き詰まったら「神」が出てくる。わからないが嫌なのだ。思考を停止して「神」の偉大さを敬うことは安心をもたらす。なぜ安心するのだろうか。

 心の構造を考えれば、快・不快回路が関係していると思われる。この回路を刺激するのは基本的に視床下部からの内部入力(本能)である。ここに知識欲という本能があるのならば、動物にも存在するだろう。動物に存在しないのなら、書き換えを行う意識回路が関係しているかもしれない。

 動物は意識回路がないので思考はしないが、空想、回想はしている。この回路だけで神の存在まで思考はできない。つまり、神という抽象概念自体は意識回路が必要と思われる。しかし、意識回路は内的なエラー修正を機能とし、思考を繰り返して自我形成に寄与するものである。思考停止して安心するのは真逆の機能に思える。ならば、思考の繰り返しはストレスとなるので思考を停止して快楽にシフトさせていると考えたらどうだろうか。つまり、神を求めるのは知識欲からくるのではなく、ストレス回避による意識回路へのブレーキかもしれない。ならば、この回路は、視床下部に存在する

 神は教えによりヒトの生き方を導く存在である。各々の心の精神的支柱である。ある種、考えるという苦痛から解放してくれる。考えることは時に人に利益をもたらすが、悪益をもたらすことも多い。嘘は意識回路が発達しないとつけない。そこでヒト社会は法律や倫理にて、これを抑えにかかっている。犯罪では衝動的な犯罪より計画的な犯罪の方が重罪とされる。意識がない場合は無罪になる先進国は多い。

 動物界で群れをなす種は、強いものがリーダーとなり、群れを統率している。ヒトは昔、小さな国を作り王が生まれ、王は神として君臨した。ヒトは知性を発達させたけれども、本能が持つ従属性からは離れられないのかもしれない。デカルトは大学に飽き飽きしたあと放浪し、そのあと戦争に参加している。生命の儚さをみた彼は、自己の存在と神の存在が重なったのかもしれない。

 この記事では神について語ったが、あくまでも科学的見地からの意見である。宗教を否定するものではない。むしろ、神により心が救われるメカニズムを説明したつもりである。

 これにて「我思う、故に我あり」シリーズを終わらせます。あくまでも個人の考えです。読者の方も、自分の考えを巡らせてください。

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