カエリミチ

仕事詰めの毎日。自分は社会の歯車の1ピースに過ぎないということを痛いほど思い知らされる。
満員電車に乗っているたくさんの人間たちと、きっと自分も同じ顔をしているんだろう。
恋人を作るとか、化粧やおしゃれをするとかにいつから興味がなくなったのだろうか。

自分ってなんだっけ……

そんなことを考えていたら、自分が歩くべき方向がわからなくなってきた。
家に帰らなくてはいけないのに、どうしたって足がうごかない。いや、足の先から感覚からなくなっていくような…………

「こんにちは、お姉さん」
「え?」

住宅街の中にある小さな緑地の、入り口にあるポールに腰掛けて私に話しかけてきたのは、小学校高学年くらいの可愛らしい少年だった。

「ねえ、お姉さんのこと教えてよ」
「私の…?どうして?」
「どうしてって…だってお姉さん、透明人間じゃない」
「え?!」

慌てて自分の手元を見ると、そこにはスーツの袖があるだけで、私の手はなかった。

「は?!どういうこと??」
「慌ててるね。ということは、お姉さんはもともと透明人間なわけじゃないんだね?」
「私は普通の人間です!!」
「じゃあ自分が何なのかわからなくなっちゃったんだ」
「え?」
「アイデンティティがなくなっちゃったんだよ」
「なにそれ……」
「知らないの?アイデンティティ。自己同一性。個性。キャラクター……あとは」
「違う違う、そういうことじゃ無くて」

指折り数えながら話す男の子は、まん丸な目を少し細めて私に向ける。

「お姉さんがお姉さんそのものであって、他のものじゃないっていう自覚がなくなっちゃったんでしょ。だから透明人間になっちゃった」
「私が他のものじゃないっていう自覚……?」
「そう。お姉さん、自分って何だかわからないんでしょ」

ギクリとした。背中に嫌な汗がじっとりと滲む。
そしてこの少年は、なぜそんなことを知っているのだろうか。

「手伝ってあげるよ」
「は?」
「お姉さんが自分が誰かを思い出せるように、ボクが手伝ってあげる」
「手伝うって、どうやって……」

ぴょんっとポールから飛び、私の前に近づく少年。

「まずお姉さんの名前は」
「か、垣崎由紀乃」
「かきざき、ゆきの!良い名前だね」

私の顔に少年の顔がぐっと近づく。

「じゃあ、あだ名は?」
「……ゆきとか、かっきーとか」
「年は?」
「28」
「家族構成!」
「両親と、弟が1人……」

少年は私のまわりをくるくると周りながら沢山のことを聞いてきた。
好きな食べ物や、好きな本、初恋の話から今好きな人の話、学生の頃の思い出や会社の愚痴まで何もかも……その少年は興味深そうに聞いてくれた。

少年と話してるうちに、私は段々自分のことがわかってきたような気がした。そうか、私は自分のことを知らなすぎた。
手先から、足さきから、感覚が戻ってゆく。透明だった自分の姿が再び見えるようになってきた……

「そろそろだね」

少年は私に顔を近づけてニタァッと笑った。そしてその不気味に歪めた口は、メキメキと音をたてながら耳の方まで裂けていき……

「いただきまァーす」

私を丸飲みしてしまった………………





「はぁ、ごちそうさま……」

体の感覚はちゃんとある。ちゃんと自分の意思で動かすこともできる。

久しぶりの"食事"だった。前に食べた少年には、もう随分前に飽きていたものだ。

「もう、ダメだよお姉さん。知らない人にそんなに自分のこと話しちゃ……」

さっきまでよく聞いていた声が、今は一番近くで響く。

「って、お姉さんはもうボクなんだっけ」

この人間で過ごすのは少し窮屈そうだが、まあ仕方ない。楽しそうな人間が自分を見失うことなんてそうないんだから。

「ええっと、確か名前は……あぁそうそう」

帰り道がわからなくなった他人を消費し、帰る場所を見つけた他人を生きる。

「私の名前は垣崎由紀乃。28歳、会社員……」

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